2009年1月21日(水)「しんぶん赤旗」

戦前は漫才・落語なども弾圧されたの?


 〈問い〉高齢の方から、「戦前は漫才や落語、替え歌なんかも特高(とっこう)(特別高等警察)からにらまれた」と聞きました。どんな例がありますか。(東京・一読者)

 〈答え〉戦前、天皇制政府は、戦争反対の先頭にたった日本共産党を徹底して弾圧しただけでなく、太平洋戦争開戦のころには、少しでも戦争に批判的な言辞も取り締まりました。演芸・娯楽も例外ではありませんでした。特高月報には次のような事例が報告されています。

 1940年(昭和15年)に山梨県の甲府宝塚劇場でノンキ節の石田一松が「稼いでも稼いでも食えないに 物価はだんだん高くなる 物価は高いのに子はできる できた子どもが栄養不良 いやにしなびて青白く アゴがつん出て眼がくぼみ だんだん細くやせて行く 日本米は高いからパイノパイノパイ 南京米や朝鮮米でヒョロリヒョロリヒョロリ」と演奏して「演奏中止、厳重戒飭(かいちょく)」にされています。

 札幌市で、「もったいないが天子様も虫けら同様の私らでも神に隔てはないとのこと」と「不敬の言辞」を述べた漫才師が「厳重訓戒の上爾今(じこん)之を訂正若(もしく)は削除せしむ」という処分をうけています。浪曲も「不敬」にわたる「言辞」で取り締まりをうけ、落語は「風俗」を乱すとして禁止をうける演目がふえ、40年9月、講談落語協会は「時局」にふさわしくない演目の上演をとりやめました。

 民衆の中で流行していた作者不明の歌謡や替え歌にたいしても特高は目をひからせました。

 とくに、兵営内で歌われた、「ひとつとせ 人の嫌がる軍隊に…」「御国のためとは言うものの 人もいやがる軍隊に 出て行くこの身のあわれさよ 可愛い彼女と泣き別れ」などの「兵隊節」はきびしく取り締まられ、多くは「厳重注意」「説諭」「厳戒」「戒飭」をうけました。

 また、「昨日生まれた豚の子が蜂にさされて名誉の戦死」(流行歌「湖畔の宿」)、「金鵄(きんし)輝く十五銭 栄ある光三十銭」(「皇紀二千六百年奉祝歌」)、「腰の軍刀にすがりつき 連れて行きんせ○○(部隊、地名など)へ」(流行歌「ほんとにほんとに御苦労ね」)など、巷(ちまた)の替え歌も監視されました。なかには、埼玉県の国民学校6年生(14歳)が「(昭和18年)四月一日自宅付近街路に於(おい)て友人数名と遊戯中左の如き反戦童謡を高唱し」として「金鵄上って十五銭…」の歌をあげ「国民学校長に対し童謡禁止方に関し注意を与え出所等捜査中」という報告がされています。えん戦感情を反映していた歌を特高は見のがさなかったのです。(喜)

〈参考〉米原昶・風早八十二・塩田庄兵衛編『特高警察黒書』(新日本出版社)

〔2009・1・21(水)〕


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