2009年1月28日(水)「しんぶん赤旗」
日本に国民皆保険が生まれたのは?
〈問い〉国民皆保険制度は、どのようにして日本で、つくられたのですか?(東京・一読者)
〈答え〉全国民が公的医療保険に加入し、必要な医療はすべて保険で給付する「国民皆保険」は、国民の運動で勝ちとられたものです。
戦前の公的医療保険がなかった時代、国民多数は医療を受けられず、「医者にかかるのは死ぬときだけ」といわれる状態でした。1920年代、労働運動の高揚に危機感を抱いた天皇制政府は、日本初の健康保険を導入しますが(1927年)、その対象は労働者の一部に限られました。また、38年には、健康な兵士を確保する政策の一環として、「農山漁村住民」などを対象とする国民健康保険(旧国保)がつくられますが、この制度は任意加入で国庫負担もなく、加入者から高額な国保料をしぼりとるだけで、医療保険としてまともに機能しませんでした。
戦後、健保・国保は一定の制度改善がはかられますが、社会保障予算の増額に背をむける政府のもと、1950年代になっても、無保険者が3千万人にのぼる状況が続きます。また、貧困な加入者を抱える国保は財政難におちいりますが、政府は、国保料値上げや徴収強化でこれを乗り切ろうとしました。
こうしたなか、労働組合、民主団体、医師会などから国民皆保険を求める運動がわき起こります。とくに、農民団体や業者団体は、安心できる国保制度をめざし、国庫負担を求める取り組みを各地で展開します。これらの運動の力となったのは、国民の生存権を保障し、社会保障の向上を国の義務と定めた憲法25条でした。労働運動の急速な高まり、「朝日訴訟」など人権と生活向上を求める多様な運動の前進も、政府をゆり動かしました。
58年、旧国保法を廃止し、新しい国民健康保険を創設する法案が国会で成立します。新国保は、「社会保障及び国民保健の向上」を目的とし、他の医療保険に加入しない全国民に医療を保障する制度とされました。制度の運営責任は国にあることが法律に明記され、定率国庫負担の仕組みも導入されます。61年、この新国保のスタートにより、国民皆保険が実現したのでした。
いま、自公政権が強行してきた窓口負担増や保険証取り上げ、医師不足や地域医療の荒廃で、国民皆保険は重大な危機にさらされています。同時に、医療崩壊の打開をめざす共同が、従来の枠組みを超えて広がりつつあります。「保険証一枚」でだれもが安心して受けられる医療制度をまもり、再建する運動が求められます。(谷)
〔2009・1・28(水)〕