2010年7月19日(月)「しんぶん赤旗」
列島だより
戦跡 残し生かす
「人からモノへ」 平和学ぶため
日本で310万人、アジアで2000万人が死亡した戦争終結から65年。体験者は年ごとに少なくなり、悲惨な戦争の記憶を未来に伝えるための史跡を保存する運動が広がっています。6月に沖縄で開かれた「戦争遺跡保存全国シンポジウム」の模様と、沖縄、岡山での保存運動のリポートです。
全国シンポ
6月19日から21日まで、沖縄県の南風原(はえばる)町共催で第14回戦争遺跡保存シンポジウムが、全国からの80余名を含む、400余名が参加して南風原文化センターなどで開かれました。「戦争遺跡保存全国ネットワーク」という市民運動団体が主催するシンポジウムとしては、1998年に続いて2回目の南風原大会です。
沖縄には年間50万人を超える修学旅行生が訪れます。その多くが、戦場化した島で住民たちがどのように死んでいったかを学びます。ガマとばれる暗黒の地下壕(ごう)に入り、体験者の話を聞きます。しかし、すでに戦場体験者の人口は20%をきりました。
今回のシンポジウムのサブテーマは「ヒトからモノへ」です。直接体験を聞けない時が来たときに、体験証言と現場をいかに残せるかという気持ちからです。南風原町が町民の戦時体験記録の悉皆(しっかい)調査を土台として、現場を保存し、平和活用する学びの場である南風原文化センターをつくりました。人口が3万5000人ほどの小さな町で住民と行政が相まって戦争の事実を伝えようと努力しています。全国で戦跡保存運動に取り組んでいる市民運動団体が南風原から学ぶものは少なくないでしょう。
文化庁が全国の詳細調査を行った「報告書」が今年度中には発刊になります。それを機に、来年以降、全国的に戦跡の文化財指定が始まるでしょう。軍人美談につながらない、真に平和を学ぶために活用できる戦跡保存のためにも、南風原町に学ぶ意味は大きいでしょう。(戦争遺跡保存全国ネットワーク代表・村上有慶)
陸軍病院壕は生き証人
沖縄・南風原町
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南風原町は、65年前の沖縄戦で住民の約40%の貴い命が失われました。住民犠牲を多くした原因の一つに、第32軍の司令部が置かれた首里(那覇市)の南側に位置していたため、直轄部隊である陸軍病院や軍事物資補給部隊が配置されたことがあります。
沖縄陸軍病院は、南風原国民学校を病舎とするとともに、近くの丘に壕(ごう)を構築。学校が米軍の空襲により焼失後は、病院機能はすべて壕に移されました。米軍上陸後、壕には負傷兵が運ばれ、患者であふれていました。患者の治療看護、食事の世話、ふん尿の処理、死体の片付けなどを行っていたのが、「ひめゆり学徒隊」でした。米軍が南風原に接近したころ、病院は南部撤退の命令が下り、重傷患者は青酸カリによって処置されました。
南風原町は1990年、全国で初めて「沖縄陸軍病院南風原壕」を戦争遺跡として町文化財に指定しました。指定理由に、沖縄陸軍病院南風原壕は「戦争の生き証人」であり、「南風原町にとって戦争を知るかけがえのない文化財である」とうたっています。
南風原町は文化財指定後、「保存活用調査研究委員会」を発足させ、壕の保存活用の理念・方針を96年に答申。2003年には地下病室のあった第20号壕の整備公開を中心に据えた答申が出され、07年6月から公開しています。
文化財指定から公開まで17年もかかったのは、文化財指定の壕であり、しかも土の壕であったからです。
南風原町は、壕の公開にあたって、壕を「沖縄戦を追体験し、平和を学ぶ」教育施設として位置づけました。公開の年には「南風原平和ガイドの会」が誕生、09年には病院壕のある丘のふもとに「南風原文化センター」が新設され、病院壕や地域の戦争を学ぶことができる展示も充実しています。
現在、県内外から年間約1万人が入壕。1回に入る見学者を10人に制限し、必ずガイドが説明します。(沖縄国際大学教授・吉浜忍)
入壕は予約制。申込先は、南風原平和ガイドの会電話・ファクス098(889)2533。
地下に巨大戦闘機工場
岡山・倉敷市
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岡山県倉敷市の水島地域には、アジア・太平洋戦争末期、米軍の空襲を避けるため、三菱重工業水島航空機製作所の疎開工場として造られた亀島山地下工場があります。
同製作所では、海軍一式陸上攻撃機513機と紫電改9機が造られ、疎開工場の建設は、軍や警察の監視の下、秘密裏に進められました。そのため、地下工場の存在は、戦後長くほとんど知られていない状態が続いていましたが、高校生の自主活動や、地域住民の平和運動が進められるなかで、1988年2月に「亀島山地下工場を語りつぐ会」が発足しました。
会は、地域の医療生協や労働組合の組合員、教職員などが中心となって組織され、亀島山地下工場とその関連遺跡を調査・保存・活用することにより、戦争の実態と平和の大切さを学び継承し、平和を基調とする地域づくりを行うことを目指して、学習会や見学会などに取り組んできました。
こうした会の活動は行政にも一定の影響を与え、戦後50年を迎えた96年3月には、倉敷市により「亀島山地下工場の碑」が建てられています。
会の活動は、一時休止状態となっていましたが、戦争遺跡の破壊や戦争体験者の高齢化が進むなかで、2008年に再建され、最新の測量技術を駆使した実測図の作製や、諸資料・証言の掘り起こしが行われました。
その結果、総延長約2キロにも及ぶ地下工場の正確な形状をはじめ、トロッコ軌道の跡や工作機械を据え付けた跡など、当時の過酷な労働を物語る遺構や遺物が残されていることが明らかになりました。また、水島の街そのものが軍需産業都市として計画的につくられたものであり、トンネルの掘削など危険な作業は、主として朝鮮人の強制労働によって行われたことも明らかにされています。今年の3月には、これらの成果をまとめた調査報告書『水島のなりたちと亀島山地下工場』が刊行されました。
会では、亀島山地下工場の文化財指定・登録も視野に、引き続き、学習会・展示会・見学会などに取り組んでいくことにしています。(亀島山地下工場を語りつぐ会事務局長・村田秀石)