2010年11月12日(金)「しんぶん赤旗」
赤旗まつり「科学の目」講座
「科学の目」で日本の政治史を読む
不破哲三社会科学研究所所長の講演
「戦後の日本政治が日本共産党と支配勢力の対決の歴史だということがよくわかった」(静岡県の男性・32歳)、「話を聞いて涙がとまらなかった。この党の一員であることにこんなにも誇りを感じたことはありません」(埼玉県の男性・55歳)――第40回赤旗まつり2日目の7日、「『科学の目』で日本の政治史を読む」をテーマにした日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長の講座に多くの反響が寄せられました。紙上で再現すると――。
|
政治史を「科学の目」で読むとは
不破さんの講演は、一つのグラフを参加者と読み解く形ですすみました。グラフは、戦後から現在まで行われた衆院選挙と参院選挙での日本共産党の得票率の推移を示したもの(下掲)。「このグラフはみなさんをがっかりさせるために見せるわけでも、上がり下がりはいつもあると、なぐさめるために書いたわけでもないんです」。こう笑いを誘いながら不破さんはいいます。
「大事なことはここに描かれた大きな波の歴史を読み解くことです。日本社会がいまどんなところにきているのか、われわれの運動がどんな地点に立っているのかがよく見えてきます」
そのうえで不破さんは、「科学の目」で政治史を読むうえで大事な視点をあげました。
一つは、その社会で、社会発展や国民の生活を抑え込んでいる害悪の根源がどこにあるのかをつかむことです。同じ資本主義でも、その害悪の現れ方は国によって違い、時期によっても現れ方、働き方は違ってきます。そこをつかむことで「科学の目」となります。
二つめは、その害悪を取り除こうとする勢力と、害悪に固執する支配勢力とのたたかいをつかむことです。害悪擁護派は、害悪を取り除こうとする変革派が力を増すと大攻勢をかけて後退させようとする。しかし、元の害悪は変わっていないので新たな舞台でのたたかいが展開されるのが政治の歴史です。
不破さんは、こうした社会・政治の変革に至るたたかいをマルクスが160年前に“革命は結束した反革命を生み出し、それとたたかうことを通じて自分を成長させる”と見事に表現していることを紹介。「私たちはこれを『階級闘争の弁証法』とよんでいますが、この角度から戦後の政治史を一緒に考えていきたい」と講演テーマの動機を語りました。
さらに、不破さんはもう一つの動機として、今月から「読売」でスタートした連載「時代の証言者」のインタビュー取材をあげました。時代ごとに取材を受けるなかで、日本共産党と支配勢力のぶつかりあいの歴史を改めて考えたとのべ、「みなさんも、自分の歴史と重ね合わせて聞いていただければありがたいと思います」と本論に入りました。
「階級闘争の弁証法」――原型はアメリカの占領時代にあった
いまの日本の政治体制は、日本が戦後7年間近い占領体制を経て1952年のサンフランシスコ講和条約が発効した時点でおおよその形ができました。
不破さんは、今回の政治史読解の本題はそれ以降の歴史だが、「占領時代の政治史にも、『階級闘争の弁証法』が実に生々しく出てくる。また政党の原型も出てくる」として、占領時代の政党・政治状況を概括しました。
戦後、日本共産党以外の政党は党名を変えて活動し始めました。侵略戦争推進の歴史を持つため、そのままの名前では活動できなかったからです。社会大衆党は社会党の系統に、政友会や民政党という保守政党は自由党や進歩党(まもなく民主党に改名)となり、のちに自民党に合流していきました。
「反省して名前を変えたのならまだわかりますが、反省もせず変えたから始末が悪い。(戦争推進の)歴史はあるが、歴史はないということになった。こういう政党政治は世界で珍しいのです」と、アメリカやイギリスと対比し、日本の政党史の特異性を強調しました。
占領期の政治状況はどうだったのか。占領軍(連合国軍)は最初のころは日本の民主化を任務にしていましたが、47年から急激に反動化。新憲法下の最初の選挙で生まれた民主党・社会党連立政権(片山哲・芦田均内閣)はアメリカの占領政策の執行機関となり、国民生活を犠牲にして独占資本を復活させる政策をすすめたため、国民との矛盾を深めました。
日本共産党は、この政治情勢のもとに行われた49年総選挙で、前回選挙(47年)の100万票・4議席から298万票・35議席へと大躍進します。この動きに危機感をもったのが、アメリカと日本の支配勢力でした。
「支配勢力は、講和条約を結んでも基地は残し安保体制を敷くつもりでした。共産党が強いとそれができなくなるので、つぶさなければいけないと考えたわけです」。不破さんは支配勢力による戦後最初の総反攻の狙いと計画をそう指摘しました。
支配勢力はまず、「共産党は悪者だ」と国民に宣伝するため、49年に下山事件、三鷹事件、松川事件(注)とよばれる列車妨害、列車転覆などの謀略事件を相次いで起こし、「共産党の仕業だ」とでっちあげて党や労働組合への弾圧を強行しました。
こうした地ならしをしたうえで、連合国軍総司令部の最高司令官マッカーサーは50年5月に共産党非難の声明を出し、同年6月には国会議員を含む日本共産党全中央委員の公職追放を指令し、「赤旗」も発行禁止とするなど、日本共産党が身動きのできないような状態にしたのです。
こうしたもとで51年に、サンフランシスコ講和条約が日米安保条約と抱き合わせて締結されました。「当時、国内で行う集会は全部届け出制で、『平和』などと名前がつくと占領軍の命令で全部解散・禁止されました。『平和盆踊り』というのまでも弾圧ですから。そうやってできあがったのが安保条約なんです」と不破さん。
扇動的な反共宣伝で国民と共産党の間にくさびを打ち込み、つぎに共産党排除の政治体制で仕上げるという総反攻の手口は、その原型を占領体制の時代にもっていたのでした。
支配勢力の総反攻(76年〜80年)
不破さんの講演は、60年代以降に進みます。
日本共産党は、50年代の旧ソ連の干渉、党中央の解体と党分裂の事態を克服し、61年に現在の党綱領の原型となる綱領を確定しました。綱領は、日本社会の「二つの害悪」――異常な対米従属と財界・大企業の横暴な支配を取り除く変革の道筋を打ち出しました。
当時、大問題になったのは安保条約の改定問題でした。改定では、独立国らしい体裁がほしい日本側が基地の使用や出撃は事前協議するという方針を要求。実際は、核兵器搭載艦船の寄港は対象外とする「密約」が結ばれました。米側は、育成した自衛隊を使えるように日米共同作戦条項を盛り込みました。
国民はこのごまかしと危険を察知して、安保改定反対の大国民運動がおきました。
当時は「社会党から分裂し、一番右といわれた民社党も『駐留なき安保』の立場をとりました。安保条約の現状で結構なんていう野党は一つもなかった」状況でした。
経済はどうか。60年に「国民所得倍増計画」を決定した池田勇人内閣の政治は、まさに大企業応援そのものでした。ところが、「“大企業応援の政治は困る”という立場に賛同する野党は日本共産党以外ありませんでした」。“大企業を応援しないと成長しない”という迷信がそのころから吹き込まれ始めたからです。その弊害が鮮明になるのは、日本中が公害列島化してからでした。
「安保の問題でも大企業の問題でも、正論を主張する日本共産党の人気がぐっとあがり、占領期に続く2度目の急上昇がおきたのです」(不破さん)。一時は総選挙で議席ゼロ(52年)というところにまで落ち込んだ日本共産党が、69年総選挙で319万票・14議席を獲得。続く72年総選挙では563万票・39議席へ躍進するなど政治の激変が訪れました。
「そういう激変がおきると、やはり支配体制は動くものなのです」。不破さんはグラフに示された2度目の支配勢力の総反攻とそれとのたたかいに言及します。
76年1月の国会では民社党の春日一幸委員長が代表質問で、戦時下の暗黒裁判である宮本顕治氏の治安維持法違反事件を使って大反共演説を展開。それをバックアップするように雑誌論文でも“共産党は暴力革命の党だ、怖い党だ”という連載が1年かけて行われました。「まず『共産党は怖い党だ』と宣伝して、国民と共産党の間にくさびを打ち込もうとしたのです」。占領期と同じやり方です。
「しかし、この時代は、すでに日本共産党の素顔がわかっていますから、そういう宣伝戦をやってもそれだけでは簡単に国民には響きません」(不破さん)。76年総選挙で日本共産党は19議席に減らしましたが、吹き荒れる反共攻撃とたたかって79年総選挙では41議席へと伸ばしました。
地方政治の分野でも、60年代後半から70年代前半にかけて革新知事が9都府県に拡大。75年のいっせい地方選挙の時点では、革新自治体は205に広がり、人口約4700万人、日本の総人口の約43%が革新自治体で暮らすところまできました。さらに国政でも、70年代後半には日本共産党と社会党との党首会談で、革新統一戦線の問題をめぐる合意が結ばれるところまで進みました。
冒頭に指摘した「階級闘争の弁証法」は続きます。「支配勢力は“このままでいくと革新統一戦線が本当にできて国政でも負けるかもしれない”という危機感をさらに強めます。春日質問で開いた反共攻撃にくわえ、政界工作をやったのです」
その政界工作こそ80年1月、社会党と公明党が結んだ「社公合意」でした。「社公合意」の最大の特徴は、自民党批判は明記せず、「日本共産党は、政権協議の対象にしない」と日本共産党排除だけを明確にしたことでした。そして「政策の大綱」では、安保条約の存続を容認する態度をとりました。
「これによって公明党はもちろん、社会党まで自民党政治の方に引っ張り込んだ」のです。
「オール与党」体制 自民党政治の危機と地殻変動
「社公合意」以後の80年代の国会は、革新は共産党だけ、他党は自民党政治の土俵の上という「オール与党」体制になりました。
この体制のもと、中曽根康弘内閣は対ソ戦で日本を「不沈空母」にするとアメリカに約束。軍事費を大膨張の軌道に乗せました。がた落ちだった財界の信用も“メザシの土光(経団連名誉会長)”を演出した「臨調行革」で挽回(ばんかい)。臨調のお墨付きでゼネコン政治を再びおおっぴらに軌道に乗せました。
「そうなるとやはり前と同じ現象がおきるのです」と不破さんが紹介したのは、その後の「地殻変動」です。
88年、1議席を争う大阪の参院補欠選で日本共産党の吉井英勝氏が勝利。翌年の千葉県知事選、名古屋市長選でも日本共産党単独推薦の候補が「オール与党」候補に迫りました。しかし、マスコミが「地殻変動」と評したこの動きは中国の「天安門事件」、ソ連・東欧の崩壊を利用した共産党攻撃で抑え込まれます。
「非自民」政権の瓦解から共産党の躍進へ
その間も、自民党の腐敗したゼネコン政治の危機は拡大しました。未公開株譲渡で政界が汚染された「リクルート事件」、ヤミ献金で公共事業がゆがめられたゼネコン疑惑が続出。金丸信副総裁が逮捕され、自宅から金ののべ棒が出てくるなど“時代劇”さながらの展開になりました。
そこで、自民党に代わる政権の受け皿として誕生したのが「非自民」連合です。日本新党、新党さきがけ、そして自民党元幹事長の小沢一郎氏の新生党と、続々と新党づくりの波がおこりました。この三つの新党と、社会、公明、民社、社民連、参院会派の「民主改革連合」をくわえた8党派が、政策は自民党政治の継承で合意。新党ブームに乗り、93年総選挙で政権交代を果たします。マスメディアの世論操作も強烈で、テレビのインタビューでも「あなたは自民か、非自民か」と不破さんにさえ詰問調。「非自民であらずんば人にあらず」といった風潮がつくられての結果でした。
しかし、この内閣も「基本政策は自民党を踏襲」を公然と看板にした政権で、1年足らずで崩壊。小選挙区制を導入して「二大政党」体制づくりをめざした「非自民」連合は分裂し、離合集散を繰り返して多党化しました。
98年1月のNHK野党討論会に13もの政党(注)が集まったと振り返り、その名前を読み上げながら、「みなさん、そのなかでいくつ覚えていますか」と問いかけた不破さん。「今ワシは何党かねと秘書に聞き」という当時の川柳を紹介すると、会場から爆笑がおこりました。
「『社公合意』で共産党以外の全政党が自民党政治の土俵に乗ったから、どの党も自民党と組める。自由勝手に別れることもできる。政治がすべて、安保条約絶対型・大企業応援型の自民党政治の土俵の上での政局になってしまったのです」
この中で、再び「急上昇」したのが日本共産党でした。“共産党と書くときに手が震えた”という壁を乗り越え、96年の総選挙で726万票、98年の参院選で819万票を獲得。衆院で26議席、参院で23議席を占めました。日本共産党を入れた野党連合政権が現実味を帯びました。
「二大政党」選挙を看板にした新たな総反攻
そこでまた、支配勢力の新たな総反攻が動き出しました。
第1段階は、過去2回の反攻と同じく「国民と共産党の間にくさびを打ち込む」ことでした。2000年の総選挙で、「共産主義の真実」「共産主義にだまされてはいけない」などとした出所不明の謀略ビラやリーフレットが全国で60種類以上、1億枚を超える規模で配布されました。すべてカラー刷り、おそらく何十億円のお金を使って街の雰囲気をガラッと変えたのです。
第2段階も、過去と同じく、「共産党排除の政治体制づくりで仕上げる」ことでした。財界が直接乗り出し、選挙方式を「二大政党」による「マニフェスト(政権公約)」選挙に切りかえるという大作戦に総がかりで取り組みました。
こうして03年総選挙の直前に、財界の肝いりで民主党と自由党を合併させ、強引に「二大政党」の形をつくったうえで、「マニフェスト」方式を持ち込んで、議員を選ぶ選挙を「首相を選ぶ」選挙に根本的に切りかえたのです。首相を出す段階にない政党を国民の選択肢から排除する狙いです。
「こうしてみてくると、共産党をいかに抑え込むかが支配勢力にとって政治の中心問題であることがわかると思います。そのために選挙制度を小選挙区制に変え、選挙のやり方も変える。共産党と支配勢力の対決を軸に動いてきたのが、グラフのこの波なのです」
民主党政権は国民の失望の波にのみこまれつつある
「共産党を抑え込んで政治がちゃんとするなら、共産党が残念だというだけで天下泰平かもしれません。しかし、そうはならないのです」。不破さんが語ったのは、その後の自民党政治と現在の民主党政権の惨状です。
「自民党をぶっ壊す」と「劇場型政治」で観客を喜ばせた小泉純一郎内閣。実際には、アメリカと財界いいなりにイラク戦争賛成・海外派兵・社会保障切り捨てを進め、潮時が来ると退場しました。後を継いだ安倍晋三・福田康夫・麻生太郎内閣は「劇場」にかける出し物をもてず、国民の支持を失いました。
2009年、「政権交代」を一枚看板に、同じ劇場政治のやり方で自民党政権にせまっていた民主党が、総選挙でついに政権に到達しました。これは、民主党の政権党としての能力が、国民の前でじかに試される時代に入ったということです。そして民主党政権下の初の国政選挙、2010年の参院選を迎えました。「政治とカネ」疑惑の的となった鳩山・小沢両氏をはずし、新体制で選挙に取り組んだ民主党でしたが、3年前に得た参院の多数を失う大敗を喫しました。
選挙後も、国民のあいだでは、急速に民主党政権への失望がさらに広がり、この政権は失望の波にのみこまれつつあります。
失望の中身は二つ。一つは自民党政治と変わりがないということです。「もともと大部分は自民党政治の中で同じかまの飯を食ってきた人たちです。自民党政治と同じだというのはまさに正解です」と不破さん。
もう一つは、民主党に綱領的展望がないということです。
不破さんは、政権獲得というお題目一つで集まった合成政党だから綱領を持てないのだと指摘。憲法問題でも“正面改定”派から、現行でも国連の看板があれば海外での武力行使も可能という人までバラバラ。「前の大臣が八ツ場(やんば)ダムは『ダメ』といったのに、人が代わると『ダメとはいわない』と、コロコロ変わる」ありさまです。
尖閣問題・千島問題では、国益を守る意思も、それを通す道理や確信もなく、自民党の弱腰外交を引き継いでいることから、現在の右往左往がおきていると語りました。
「安保条約絶対型・大企業応援型の政治の土俵の上で政権交代をしたらどうなるかを、日本の国民が自分の目で経験したのは本当に大事なことです。この経験は日本の将来に必ず生きると思います」
日本の政治はいまどんな地点に立っているか
こうした歴史を経て日本の政治がいま、どんな地点に立っているか。不破さんは二つの角度から解明しました。一つは崩壊の極点に近づきつつある財政危機です。
1980年代に仕込まれた軍拡・ゼネコン政治は90年代に花盛りになり、財政危機が急激に進み、小渕恵三首相は「借金王」を自称しました。
ゼネコン政治に輪をかけたのはアメリカでした。海部俊樹内閣が10年間で430兆円の公共投資をアメリカに約束し、村山富市・橋本龍太郎内閣がさらに630兆円に増額させました。
軍事の浪費も進みました。50トンもの重量で道路を移動できず、北海道での対ソ戦以外には使えない90式戦車300両をソ連崩壊後も製造し続けました。
国・地方の長期債務残高は対GDP(国内総生産)比で90年代に100%を超え、本年度末には181%に達しようとしています。不破さんはグラフを指し示しつつ、「この借金の増え方は、金もないのに軍備を拡大した戦争中の日本に非常に似ています」と指摘します。
戦争中の国の債務の対GDP比は、31年の満州事変から37年の中国全面戦争までは50〜60%だったのに、対米戦争とともに100%を突破。戦争末期には204%に激増しました。
「それが爆発して、戦後は大インフレになりました。現在の数字は地方の債務を含んでいるので単純に比較できませんが、それに近いところまできている。これが『社公合意』以来30年間の自民党政治の到達なのです」
もう一つは、世界の変化への逆行です。
軍事同盟は世界から消えつつあります。ベトナム戦争で米軍の拠点となったフィリピンにも、もはや米軍基地はありません。核不拡散条約(NPT)再検討会議ではフィリピン代表が議長役を務め、外交力を発揮。国の大小や軍事力でなく、平和をめざす外交の力がものをいう世界への変化が進行しています。
「ところが日本は日米安保の核の傘の下にいるために核問題でも外交力を発揮できない。いまでも軍事同盟に縛られ、広大な基地を置いているのです」
経済社会の異常性も拡大しています。
ヨーロッパの資本主義では当然のルールが日本にはありません。ソニーの盛田昭夫会長は92年、「日本型経営」の異常について▽長時間労働▽給与水準が低い▽下請けとの関係が親企業本位▽地域社会への貢献に消極的▽環境保護が弱い―と列挙し、ヨーロッパやアメリカの資本主義にたいして顔向けできない、このやり方は世界では通用しない、しかし一企業の力ではやれないからと、社会でのルールづくりを求めました。
「盛田さんが警告した時点と比べれば、ヨーロッパとの格差はさらに広がっています」と不破さんは強調します。97年以降、労働者の平均賃金は低下する一方、大企業の内部留保は142兆円から244兆円に100兆円も増えています。ところが、民主党政権も“大企業を応援しないと成長しない”という迷信をむし返し、国民には消費税、大企業には法人税減税の態度です。
「こういう閉塞(へいそく)状況を生み出した日米安保条約絶対・大企業応援優先という政治の土俵に、ここまで来てもまだ固執するのか、それともそれを変えるために力を尽くすのか。私はいま、このことが政治に問われていると思います」
社会の害悪を乗り越える力は必ず生まれる
不破さんは、「いつの時代についても明るく語れるのはなぜか」と、「読売」の「時代の証言者」の取材で問われ、「革命的楽天主義は社会を変えようと志すものの本性」と答えたと紹介。「社会に害悪があれば必ずそれを乗り越える力は生まれる」とのべて、次のように結びました。
「歴史を開くのは主権者国民の自覚と運動です。日本の未来をめざす国民の探求は私たちの願う国政革新の路線と一歩一歩合流してゆく、その時期が一日一日近づき、その足取りが政治の日々の展開の中に響いています。歴史は人間がつくるものです。新しい政治を開く先頭に立っているという確信、日本の政治史に深く裏付けられたこの確信を胸に、広い視野と展望を持って力を尽くそうではありませんか」
大きな拍手が不破さんを包みました。
|
下山、三鷹、松川事件 1949年7月から8月にかけ起きた一連の謀略事件。三鷹事件では国鉄の組合員ら電車転覆致死罪などで10人が起訴されましたが、その後共産党員9人は無罪となり釈放。松川事件は国鉄と東芝の労働組合員20人が逮捕・起訴されましたが、裁判を通じ14年かかって全員の無罪が確定しました。
13の政党 日本共産党、民主党、自由党、新党平和、国民の声、新党友愛、太陽党、改革クラブ、フロムファイブ、民主改革連合、黎明クラブ、公明、第二院クラブ
参加者の感想から
「革命的楽天主義に元気もらった」
「歴史は共産党の前進求めている」
不破さんの講演当日、140枚を超す感想文が寄せられました。
「まるで見てきたかのように歴史を流れでつかむことができたのは、その時代を活動家として生きてきた不破さんの話だからこそだと思います」(滋賀・24歳・女性)、「最近の選挙の動きに、いかに近視眼的に一喜一憂していたか。『革命的楽天主義』の言葉に元気を与えてもらいました」(栃木・71歳・女性)と、政治史の大局的な流れを浮かび上がらせた講演に励まされたとの感想が相次ぎました。
「現在の財政危機を第2次大戦のころと比較され、大変な世の中になっているのだと思いました」(新潟・79歳・男性)、「ソニーの盛田さんの話のところは説得力があった」(新潟・48歳・男性)、「マニフェスト選挙=首相選択の選挙=議員を選ぶ選挙の否定という構造の解明は新鮮だった」(新潟・65歳・男性)と、新たな認識の獲得を喜んだ人。「47年に入党し、60年余をたたかってきた自分の人生を総括していただいた気持ちで、深い感慨を覚えました」(千葉・83歳・男性)と、政治史と自分史を重ね合わせた人…。
若い世代も、「政治を変えようとする動きと、悪いままでいようとする力がせめぎあっていること、変えたいという国民の願いの先頭に立っているのが共産党だということがよくわかりました。特にこの30年は異常な方向へ力が働いている。だからこそ、それを変える共産党が大きくなることが歴史的に求められていると思いました」(大阪・31歳・男性)など、多数の感想文を寄せました。
■関連キーワード