2003年3月27日(木)「しんぶん赤旗」
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「バグダッドの親類に電話がつながらないんです」―。
二十四日、ヨルダンの首都アンマン市中心部のアパートで、サルタン・アルガリブさん(33)が不安げに訴えました。右手に握った携帯電話の番号を繰り返し押しますが、十五分のインタビューの間一度も通じませんでした。
「最後につながったのは二十三日の午前八時十五分でした」と、サルタンさん。「バグダッドからは、『大丈夫だ。心配するな』との返事が返ってきました。しかし、電話の後ろからは、空襲警報が聞こえ、緊迫感が感じられました」
話しながら、サルタンさんの表情が曇りました。猛爆下の恐怖を精神力で耐えている親類たちに思いを寄せている様子。退避を促しても「長年住んだここから逃げるつもりはない」と断られたといいます。親類の心を理解しながらも、やるせない心情をサルタンさんのこわばった顔が示していました。
ヨルダン人のサルタンさんはバグダッド―アンマン間の運転手をしていました。米英軍がイラクへの攻撃を開始した二十日を前にした十七日、一九八三年から住むバグダッドを後にし、友人を頼ってアンマンに避難したばかり。夫人でイラク人のメルバットさん(25)は開戦の前日に、四カ月から七歳までの四人の子どもとともに後を追いました。
連絡を取ろうとしたのは、一緒に暮らしてきたメルバットさんの兄弟やその隣人でした。住宅があるのは、バグダッドのまさに中心部です。近くには警察本部があり、米国の空爆の対象となったといいます。
サルタンさん夫妻は、友人の支援で借りた安アパートで、地元テレビが伝える戦争被害のニュースを見ながら、安否をしきりに気にしていました。「退避後も毎日のように連絡を取り合ってきたんですが…」と夫妻。突然電話が不通になったことで、言い知れない不安感におそわれている様子でした。
サルタンさんはいいます。「アメリカやイギリスがどんなに戦争を正当化しても、小さな子どもや女性を殺傷している厳然とした事実を曲げることはできない。すぐにやめて、もとの平和なイラクを返してほしい」 (アンマンで岡崎衆史 写真も)