2003年4月11日(金)「しんぶん赤旗」
崩壊寸前状態と伝えられるフセイン体制は、国内で抑圧と対外侵略を繰り返してきた独裁政権です。(坂本秀典記者)
一九七九年七月、イラクの最高権力機関である革命指導評議会の副議長サダム・フセインが、引退したバクル氏の後継者として大統領に就任しました。
イラクは、翌一九八〇年九月、イランにたいし国境確定条約を破棄して攻撃を仕掛けました。パーレビ王政が崩壊した後のイランの混乱に乗じ、中東地域で支配権を確立することがねらいでした。両国の戦争は、八八年まで八年間も続き、国民の生命と経済を疲弊させました。米国はこの間、敵対的なイランの「イスラム革命」の影響を抑える目的でフセイン政権を支援しました。
フセイン政権は、イランとの戦争が終わった二年後の九〇年八月、今度は南の隣国クウェートを侵略、油田が豊富な同国を併合しようとしました。しかし、国連安保理は同年十一月、イラクをクウェートから撤退させるため「必要なすべての手段をとる権限」を国連加盟国に与えるとの決議を採択。翌九一年初め、米軍を主体とする多国籍軍とイラクとの間で湾岸戦争が行われ、敗北したイラクはクウェートから撤退させられました。その結果、イラクは原油輸出禁止などの経済制裁を受け、国連機関による大量破壊兵器一掃のための査察も繰り返されてきました。
フセイン体制のもとでは、石油輸出による資金などで貧困対策が行われましたが、他方、同大統領への個人崇拝が強制され、張り巡らされた軍事・秘密警察組織を通じて国民の一切の市民的な自由が奪われました。
同政権は、親族やフセインの出身地方の取り巻き幹部で固める一方、共産党の非合法化はじめ、批判者や反対勢力にたいし、粛清や暗殺、弾圧を加えてきました。
八八年には北部の少数民族クルド人に対し、イラン・イラク戦争で「イランを支持した」との理由で毒ガス化学兵器を用いて攻撃、数千人を殺害しています。湾岸戦争後の九一年三月には、フセイン体制に批判的なシーア派住民が多く住む地域などでの反政府暴動にも残忍な弾圧を加えました。暴動と報復の弾圧で十万人以上が殺害されたともいわれます。