2003年4月14日(月)「しんぶん赤旗」
イラクの首都バグダッドのフィルドス広場にあったフセイン大統領の像が引き倒されるテレビのシーンが世界を駆け巡りました。イラクに侵攻した米英はこれをイラク「解放」の“象徴”に仕立てようとしています。実際には何が起きていたのか―。
テレビ映像で流されたのは立像を中心としたシーン。イラク人男性らがハンマーやロープで立像を倒そうと試み失敗。このため、米海兵隊が戦車をけん引する軍用車両のクレーンを使い引き倒しました。
この周りにいたイラク人は英BBC放送などによると、「十数人」にすぎません。広場にいたのは二百人ほどで、ほとんどが米軍兵士だといいます。
テレビではイラク人男性がフセイン政権崩壊を喜ぶシーンも流れました。しかし、この中に親米イラク人組織の軍事組織のメンバーがいたことを米国の非政府組織(NGO)が指摘しています。
米NGO「インフォメーション・クリアリング・ハウス」によると、七百人の「自由イラク軍」兵士が、親米イラク人組織・イラク国民会議(INC)のチャラビ議長とともに米軍輸送機C17四機で六日、イラクに入りました。そのときの写真でチャラビ氏の後ろに写っていた人物がフセイン像引き倒しを喜ぶイラク人男性と同一だというのです。
像引き倒し“事件”があった日の前日の八日には、米軍の蛮行を連日報じていたカタールのアルジャジーラのバグダッド支局が爆撃され、九日はなお、米軍が市内の各所を封鎖していました。そうしたなかで、欧米のメディアが集まっていたパレスチナ・ホテルの前にあるフィルドス広場で“事件”が起きたのも偶然ではないでしょう。
フセイン独裁政権の崩壊を喜ぶイラク市民がいたのは確かです。しかし、立像引き倒し“事件”は、「フセイン独裁政権の打倒」「イラクの解放」という米国の戦争の「理由」をメディアを利用して正当化しようという巧妙なキャンペーンの象徴ともいえるでしょう。
米英軍は翌十日、イラク国営放送に代わる「自由に向けて」の番組の放送を開始しました。その最初で、ブッシュ米大統領は「サダム(フセイン)の腐敗したギャングはいなくなった」と述べ、さらに「(イラク政府とイラクの将来は)あなたたちにかかっている」という言葉を忘れませんでした。ここではおおっぴらにメディアを利用しています。
立像引き倒しの直後にバグダッドで現出したのは略奪と無秩序状態です。これを放置している米国に、その責任の矛先が向けられているのも米国のいう「解放」がまやかしであることを物語っています。(伴安弘記者)
「あれがイラク人の本当の気持ちなんだろうか」―。イラクの隣国ヨルダンで、イラク戦争での米国の「意図的な情報操作」を批判する声が相次いでいます。
「あとでよく考えると、あそこに集まったイラクの人たちの数は、少なすぎるような気がします。あの映像だけでは人々の気持ちは分かりません」。アンマン市内で援助団体の仕事をするメイ・シャラビイエさん(27)が街頭でこたえました。
質問は、九日午後のバグダッドからのテレビ中継について。テレビには、イラクのフセイン大統領像が米海兵隊員によって引き倒され、人々が歓迎する姿が映しだされました。
「イラクの人々の喜ぶ気持ちは理解できますが…」。メイさんは、こうも語りながら、「歓迎一色」の報道に納得がいかない様子でした。
公務員のモハマッド・ザルカンさん(32)は、「イラクの人たちは利用されたに違いない」と話します。根拠は、集まった人数が少ないことや現場に多くの報道陣が詰め掛けていたことを挙げます。「アメリカのお膳立てに決まっている」、モハマッドさんが言い切りました。
「米軍は、民間人被害を伝える報道陣を殺害しておきながら、都合のいい時だけマスコミを利用している」。アンマン市民からは、こうした批判もでました。
実は、フセイン像が引き倒された現場は、前日の八日、米戦車の砲撃によって、ロイター通信カメラマンなどが殺傷された、パレスチナ・ホテルのすぐ目の前でした。同日、米軍は、ミサイルで、アルジャジーラ・テレビとアブダビ・テレビのバグダッド支局も攻撃。アラビア語放送の二局は、現地から民間人の被害状況を伝えてきました。
ヨルダン紙アットストールのラシャド・アブダウド編集幹部(52)は、「フセイン像の引き倒しショーは、米国が侵略を開始するとともに用意されていたに違いありません。戦車、はしご、米国旗、イラク国旗、あの場にあったすべてのものが、偶然ということがあるでしょうか」と指摘します。
「アメリカは、わが家族や国民を多数殺した。これを忘れることはない」(バグダッド在住のイラク人男性=アルジャジーラ九日放送)、「たくさんの人々、子どもたちが理由もなく殺された。米軍は、平和のためにここに来たのではない」(エンジニア=十二日配信の外国通信社記事)。一時、米軍歓迎ニュース一色だったバグダッド報道も、米国を批判する市民の声を徐々に伝えるようになり、「歓迎」の実態が明らかになりつつあります。 (アンマンで岡崎衆史)