2003年4月27日(日)「しんぶん赤旗」
米軍によるイラク「解放」の実態を雄弁に語ったのが、九日のバグダッド制圧直後からの市内の政府機関や公共施設、バース党幹部自宅などの破壊と略奪でした。
それは首都陥落から二週間たった今も続いています。略奪に続く放火、その黒煙は毎日のように、市内各地から上がっています。最近では、略奪者グループには銃で武装しているものすらいるといいます。
首都制圧でイラク国民は「解放」されたと誇ったラムズフェルド米国防長官は記者会見で、米軍の首都侵入直後から始まった略奪と無秩序についての米軍の責任を聞かれてこういいました。「フセイン政権の抑圧にたいするイラク市民の反発のあらわれだ。わが軍は秩序維持に最大限努力している」
しかし、実情はまったく違います。カタールの衛星テレビは、略奪を目撃した市民の証言を伝えています。海兵隊員とCIA(米中央情報局)要員がまず中央刑務所の門をあけ、すべての囚人を逃がした上で「彼らはこれらの囚人約三百人を政府合同庁舎に連れて行き破壊させた」。米軍が刑務所の扉をあけて「囚人を街に放した」との証言はほかにもいくつもあります。
さらに、一部市民による破壊活動を米兵たちは阻止しようとしなかったばかりか、そそのかしていた、との証言も無数にあります。
「私は西岸のハイファ通りの貧民街のところにいた。すると、米兵がやってきて、通りの反対側の自治行政府の建物を警備していた警備員を撃ち殺し、そして戦車の上から、貧民街の市民に向かって、庁舎の中に入って好きなだけもってゆけと言った。声につられるように、かなりの人が殺到した」
「略奪のきっかけをつくったのは明らかに米軍だ。バグダッド市民が米兵を歓迎する光景がなかったものだから、市民がこれほどサダムをうらんでいたんだと説明できるようなニュースと画面がほしかったんじゃないか」
重大なのは、そうした混乱のなかで、市民が近づくことすら許さなかったのが石油省の建物だったことです。最初から海兵隊の厳重な警護のもとにおかれました。
「石油省は彼らが厳重に警備していた。誰も中に入れなかった」「米英軍は市民ではなく、石油を解放し市民の命より石油を救ったのだ」(アルジャジーラ放送リポーターの現場コメント)
実は米軍、略奪をさせていただけでなく、こともあろうに、国立博物館まで襲撃させ、展示されていた四千年前のメソポタミア文明の古代遺産の略奪に自ら手を貸していたのでした。遺品の一部が米国の国際空港で発見されたのは、米軍のバグダッド占領からたった二週間後のことです。
エジプトの著名な作家、ノーベル賞受賞者のナギブ・マフーズ氏は指摘しています。「略奪者はなぜアルマスル大学を破壊し、公共図書館を焼き払い、博物館の文化遺産を盗んだのか。ジュネーブ条約は占領軍は治安維持の責任があると明記している。(略奪が)イラク人のやったことだというのは意図的だ。イラク民族の文化そのものを否定しようという底意がみえる」(アルアハラム紙十七日)
ヨルダンの新聞アッドストール(十八日付)は、略奪と破壊こそが占領の実態ではないのかとした上で「イラク国民はこのような占領を許さないだろう」と指摘しています。
米軍の占領下での略奪と破壊、それはアラブの人々にとっての痛み、米国への新たな怒りとなって周辺の国々にも広がっています。(アンマンで岡崎衆史、カイロで小玉純一)