2003年4月30日(水)「しんぶん赤旗」
衆院有事法制特別委員会の有事法制三法案の審議で、自民党の吉野正芳議員が「自民党の部会で、小学校単位の新しい『隣組』制度をつくるという話が出た」とのべました(十八日)。この問題について、ジャーナリストの韮沢忠雄(にらさわ・ただお)さんから、太平洋戦争中の「隣組」がどういうものだったのか次の一文が寄せられました。
有事法案にかんして自民党内に「新しい隣組」制度をつくるという話がでているというので、戦時中を思い出して「これは大変なことだ」と思いましたが、いま隣組といってもピンとこない人も多いかと思いますので若干当時の実情を紹介しておきます。
中国侵略戦争が泥沼化した一九四〇年(昭和十五年)九月、戦争用の雑務がふえたのにともなって内務省は市区町村の補助的下部組織として農村では部落会、都市では町内会をつくることを指示し、そのまた下部組織として十戸単位程度の隣組をつくるよう指導しました。それがアジア太平洋戦争開戦後の四二年(昭和十七年)には大政翼賛会の指導下に入って上意下達のルートになるとともに生活必需品の配給ルートの役割ももつことになったものです。
そのためNHKは国民歌謡として「隣組」の歌を作って毎日ラジオで流しました。その歌は「とんとんとんからりと 隣組」という明るい調子のメロディーだったのでよく歌われましたが、実際の隣組はそんな明るい調子のものではありませんでした。
空襲に備えての防火訓練には一戸に一人はかならず出なければ「国賊」といわれるので、妊婦でも病人でもバケツや火たたき棒をもって出ました。金属の供出や愛国公債の割り当ても隣組の仕事なので、金の結婚指輪や鉄びんまで供出させられたなどもめごとも多く、そうかといって隣組を抜ければ物資の配給が受けられなくなるので抜けることもできません。
このように隣組は物資の配給を武器にして住民を強制的に戦争に総動員する組織であり、住民同士を相互監視させる機能ももっていました。有事法案だといってこういうものをまたつくろうなんて、とんでもない話です。