2003年5月4日(日)「しんぶん赤旗」
「あんな危ないところには帰れません」−。バグダッドで電気技師をしていたパレスチナ人のムスタファ・アルハディドさん(41)が怒りをあらわにして話しました。
一家九人で現地から避難し、二日前に、ヨルダンのルウェイシェド難民キャンプに入ったばかりです。同キャンプは、イラク国境から七十五キロの砂漠地帯にあります。砂嵐が激しく吹き荒れ、目を開けるのも困難だったこの日、テントからわざわざ出て来て話してくれました。
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「上の子たちは友だちに会いたいだろうけど、あんなに治安が悪くちゃ…しかたがない」。ムスタファさんの表情が曇りました。子どもは十五歳のジハド君から二歳のエマド君まで全部で六人います。
バグダッドは、米軍が侵攻し、フセイン政権が崩壊した四月九日から治安が急速に悪化し、商店、博物館、官庁などが略奪され、暴力事件が相次ぎました。権力の真空状態が生じた結果、大規模な戦闘が継続している間は、それほどでもなかった難民が一気に流出しました。
ルウェイシェド難民キャンプには四月二十七日現在、パレスチナ人のみ五百六十人以上が滞在しています。ヨルダン側に入れず、イラクとヨルダンの緩衝地帯に滞在する人々も、クルド系のイラン人を中心に九百人を超えます。
「町(バグダッド)では、子どもさえ、銃を持ってそこらを歩いているんだ。危なくて出歩けるもんじゃない」。こう話すムスタファさんの近所の三歳の男の子も、米兵と暴徒の銃撃戦に巻き込まれて大けがをしたといいます。
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治安悪化は、イラク国民全体に大きな影響を与えましたが、とりわけ、弱い立場にあるパレスチナ人などの外国人の被害は深刻でした。
フセイン政権は、アラブ諸国で人気を得るため、パレスチナ問題を重視しているように見せようと、パレスチナ難民を優遇してきました。それが政権崩壊で同政権への憎しみが一気に噴き出した際、怒りの一部がパレスチナ人たちに向かったのです。
「暴徒たちは、サダム(フセイン大統領)を支持したパレスチナ人は早く出て行け。さもないと何が起きても知らないぞと脅すんです」。モハメド・ハッサンさん(23)とファディアさん(20)夫妻が、当時の状況を振り返りながら語ってくれました。なかには「立ち去らなければ、レイプするぞ」と脅された女性もいたといいます。
「フセイン大統領を支持していたわけではないのに…」。こう言いながら、二人は、無念の表情を隠せませんでした。
バグダッドで菓子作りをするモハメドさんの収入は、一カ月二十五ドル程度(約三千円)です。バグダッドからヨルダンまで三百五十ドル(約四万二千円)のタクシー代は、自分たちで払えず、アンマンに住むファディアさんの両親に頼らざるをえませんでした。
モハメドさんの怒りは、治安維持を怠った米軍にも向かいます。「米軍は、空爆で町を破壊し尽くした上に、バグダッドに入ってからも、治安を維持しようとしませんでした」。怒りとやるせなさが交錯する表情からは、もう十日になるテント暮らしの疲れもにじみ出ていました。
治安悪化で、米軍の怠慢を指摘し、早急な改善を求める声は、イラク国内や難民からだけでなく、国際機関からも相次いでいます。国連アンマン事務所のフリジ報道官は四月二十八日、「占領軍である連合軍(米英軍のこと)が負っている戦争捕虜の扱いや公共秩序や治安の回復」の責任を指摘しました。
イラク国内では、一部で治安が改善しつつあるとはいえ、いまだに武器取引が横行し、住民が自由に武器を持ち歩いている状況。それだけに国連機関報道官の声も厳しくなります。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のケスラー報道官も「イラク国民の安全と公正な援助の配給を確保するのは、占領軍の義務である」と強調します。
たびたび国境地帯を訪れ、難民の状況を視察している同報道官の表情は、難民流出が増えたバグダッド陥落以降厳しさを増しています。
(ルウェイシェド〈ヨルダン〉で岡崎衆史 写真も)