日本共産党

2003年5月16日(金)「しんぶん赤旗」

戦争と有事立法反対

草の根から

戦死した兄思い国会へ

キリスト者平和の会 増沢 喜千郎さん


 「あきらめないで最後まで反対していきたい」―キリスト者平和の会の増沢喜千郎(きちろう)さん(77)は、十四日、有事法制三法案が衆院有事法制特別委員会で採択された時も、国会前の抗議行動に参加していました。

 「有事法制三法案は、アメリカの世界戦略に日本が巻き込まれていくものだと思います。修正案でも本質は変わっていません。戦争放棄の平和憲法の真髄を守りぬきたいと思います」と増沢さん。

平和への石碑

 東京都調布市の増沢さん宅の庭に一メートルほどの高さの人類の永遠の平和を求める石碑が建っています。碑の表には「悲壮なる此(こ)の戦に臨みては いかで安きを求むべきかは 一九四四年十月七日没 増澤敏夫 二十一才」と彫り込まれています。

 東京商科大学専門部の二年生だった兄・敏夫さんは、四三年十二月に学徒出陣で海軍兵に。敏夫さんの乗り組んだ輸送船は、門司からシンガポールへいく途中、魚雷攻撃を受け沈没。敏夫さんは戦死しました。碑文は、召集後、敏夫さんが家族に送ってきた写真の裏に書いてあった、死を覚悟した短歌です。

 「戦後、渡された白木の箱には石が一つ入っていただけでした。兄への思いを込めて一九七五年十月七日に建てました」と、増沢さん。

 昨年、小泉首相が「備えあれば憂いなし」といって有事法制三法案を持ち出した時、「ゾーッとしました」といいます。

 「小学生のころ、当時の政府は『非常時だ』と叫びましたが今は『有事だ』と…。また、当時、『備えあれば憂いなし』と叫んで防空演習を始め、十年後、ヒロシマ・ナガサキを招きました。『天に代わりて不義を討つ』と歌って『愛国』教育をおこない、『守り』だといって侵略戦争に導きました。その歴史を繰り返してはなりません」

運動に参加

 増沢さん自身も、東京商科大学本科一年生の時の、四五年六月、陸軍に召集されました。茨城県の鹿島灘でアメリカ軍の戦車に爆雷を持って飛び込む訓練をしながら終戦を迎えました。

 戦後の四七年五月、戦争を放棄した憲法が発布された時、「今は食糧難で飢えているけれども、先は明るいんだ。二度と戦争をやらない国になれるんだ」と思いました。

 そうした希望に暗雲を投げかけた朝鮮戦争(五〇年から)。その最中の五一年、キリスト者平和の会ができました。「何としてでも平和を守りたい」と思っていた増沢さんは、この会のことを知って、入会。ずっと平和のための運動に参加してきています。

 増沢さんは、つえをつき、胸を張って国会要請やデモに参加しています。(藤原義一記者)


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