2003年7月22日(火)「しんぶん赤旗」
イラクの占領統治を統括するブレマー米文民行政官は二十日、イラク人による独立政府の樹立は一年以内に可能だと語りました。しかし、米英両国による占領が百日をこえたイラクでは、米英軍への襲撃がやまず、駐留米兵のなかに、えん戦気分が高まっています。(カイロで小泉大介)
「統治評議会を無視することがイラクに利益をもたらすことになる」
イラク人口の六割以上を占めるイスラム教シーア派教徒の聖地ナジャフ近郊のモスクで十八日、シーア派最高実力者の一人、モクタダ・アルサドル師は支持者にこう述べ、独自の統治機構設立の必要性を訴えました。支持者は口々に「アメリカに死を」と応じました。
十三日に発足した統治評議会は、一方ではイラク人自身による国家再建の第一歩として期待を集めています。
他方で、「統治評議会のメンバーは、自分たちが選挙で選ばれておらず、占領の一形態となっていることを認識すべきだ。統治評議会は、占領当局のために働いているのでないと証明するための困難な仕事にとりかからなければならない」(汎アラブ紙アルハヤト十七日付)など、懐疑的な見方もイラク内外で広く存在しています。
最大の懸念は、統治評議会発足にもかかわらず、米占領当局が最終決定権を握り、依然として大きな影響力を確保している点にあります。二十五人の評議会メンバーはすべて暫定行政当局(CPA)の任命で選ばれ、CPAが評議会の決定を拒否する権限を握っています。
評議会メンバーには、米英占領軍の早期撤退と自由選挙を主張するイラク共産党のムーサ書記長が選ばれ注目されています。
一方で、チャラビ・イラク国民会議(INC)議長のように「イラク国民は米英軍を解放軍とみなしている」(統治評議会初会合後の記者会見)と述べるような人物まで含まれています。
統治評議会はこれまでに、フセイン体制が崩壊した四月九日を国民の祝日とする、旧政権を裁く特別法廷を設置する、国連に代表を派遣することなどを決定しました。しかし、喫緊の最重要課題としている治安回復や水・電気の復旧、経済再建などに関しては、具体的方向をほとんど打ち出せていません。発足後すぐに選出するとしていた評議会議長も、現在まで選出されていません。
首都バグダッドでは今、統治評議会そのものに反対したり、委員の差し替えを要求するデモが連日のように行われています。参加者は「評議会は米軍支配にいいように利用されるだけだ」「選挙で選ばれた指導者だけを信じる」などの声を上げています。
アルサドル師が十八日に統治評議会を批判した直後、米軍は同師のナジャフの自宅を包囲し、軟禁状態に置きました。これに怒った支持者数千人が十九日に首都バグダッドで、二十日には数万人がナジャフで集会とデモを行い、米軍撤退要求と統治評議会批判の声をあげました。ナジャフのデモ参加者は「これは米国への警告だ」との英語のスローガンを掲げました。
米占領への反発もますます強まっています。占領開始から三カ月以上経過した今も、一日に数時間から十時間以上も停電するなど、生活インフラは破壊されたまま。「住民の我慢の限界は社会的騒乱を導く」(イスラム教シーア派の最高指導者の一人、ムハマド・ハキム師)との警告がでる状況です。
カタールの衛星テレビ、アルジャジーラによると、占領当局は十六日、治安協力要請の会議にバグダッドの宗教指導者三十人を招請しました。しかし実際に集まったのは十人ほど。そのなかからも「米軍は即刻イラクから出ていけ」の声が相次ぎました。
米軍への攻撃は激化し、十六日にはバグダッド国際空港に着陸しようとした米軍輸送機に地対空ミサイルが発射されるまでに至っています。同日には、イラク北西約二百三十キロのハディター市で、親米派と見られていた市長が車で移動中に何者かに銃撃され、同乗していた息子とともに死亡しました。イラク側の抵抗の標的は、親米派と目されるイラク人にまで及んでいます。
五〇度を超えるしゃく熱のもと、イラクを占領する約十五万人の米軍兵士の士気も極度に下がっています。一部の米兵は米テレビの取材に対し、「バグダッドが陥落すれば家に帰れるといわれていたのに、われわれはまだイラクにいる」「もしラムズフェルド(米国防長官)がここにいたら彼に辞任を求める」と軍指導部を痛烈に非難しました。
イラク国民の怒りの高まりに対し、国連のアナン事務総長は十九日までに国連安全保障理事会に配布した報告書で、米英軍によるイラク占領終結のめどを早急に示す必要性を訴えました。イラクの現実は、米占領軍に加担することの危険性をまざまざと示しています。