2003年8月25日(月)「しんぶん赤旗」
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党綱領の改定案を審議した第七回中央委員会総会が終わって数日たった六月二十六日、国会議員会館の私の部屋に、一通の招待状が寄せられた。外務省中東アフリカ局中東一課を経由してのものである。
手もとに届けられたものを見ると、なんとチュニジアの政権党・立憲民主連合のシャウシュ書記長からの、党大会出席を求める招待状だった。大会開催の日程が間近なことから、急いで伝えようと、外交ルートを通じての連絡となったらしい。「わが党『立憲民主連合』の次期党大会が、七月二十八日から三十一日、チュニス〔チュニジアの首都=不破〕において開催されることをお知らせします。
私たちは、あなたに、貴党代表団を率いてこの大会にご参加いただきたく、ご招待申し上げます。あなたのご参加は、両党間の、そして両国間の友好協力関係のさらなる強化に貢献するものと確信しております。
書記長 アリ・シャウシュ」
一九九九年の私たちのマレーシア訪問を皮切りに、イスラム諸国との関係は、この数年来、ずっと広がってきており、イラク戦争を前にした昨年秋の外交活動では、日本共産党代表団(緒方靖夫団長)がイスラムの盟主サウジアラビアを公式に訪問するまでになったが、党の代表者が、イスラム国家の政権党から、党大会への正式招待を受けるというのは、わが党にとってはじめてのことである。
招待状を手にして、私の胸をよぎったのは、これが、私たちが重視してきたイスラム世界との交流の、新しい展開の場となるかもしれない、という思いだった。
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同時に、三年前の二〇〇〇年十月五日、来日中のチュニジアのハビブ・ベンヤヒア外相との会談のことが、強く思い出された。中東問題で、パレスチナとイスラエルのあいだでの和平交渉がゆきづまった段階での会談だったから、話題の中心は、当然、そのことに向けられた。
日本共産党は、この問題では、パレスチナ国家の樹立をめざすアラブ諸国の闘争に一貫した連帯の立場をとってきたが、運動の大勢に受動的に従うということではなく、自主的に独自の見地を示してきたいくつかの問題があった。
一つは、アラブ諸国のあいだで、イスラエル国家の存在を認めないいわゆる「抹殺」論が大勢を占めていた時期にも、パレスチナとイスラエルの二つの国家の共存を軸にした中東の和平、という目標を主張したこと、もう一つは、一般市民を無差別に犠牲にするテロにきびしく反対したことである。
二〇〇〇年の時点ではほぼ解決していたが、一時は、こうした立場が気に入らない、という理由で、PLO(パレスチナ解放機構)の東京事務所から、無法な中傷を浴びたりしたこともあった。
ベンヤヒア外相との会談では、お互いの立場を紹介しながら、こうした問題にも話題は広がったが、驚いたことは、どちらの問題でも、チュニジアの立場が私たちの考えと完全に一致していたことだった。
大いに意気投合して、いろいろな問題について、率直な意見をかわしあったものだった。
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チュニジアは人口約一千万人、国土面積は日本のほぼ半分。イスラム諸国のなかでも、大きい国ではないが、「文明の交差点」ともいわれるその存在には、世界史、とくに地中海をめぐる周辺地域の歴史のなかで描いてきた波瀾(はらん)万丈の軌跡が、刻み込まれている。
三年前のベンヤヒア外相との会談でも、まず古代カルタゴの話が出た。現在のレバノンの地域にいたフェニキア人が、商業民族として地中海に乗り出してきたとき、最大の拠点にしたのが、カルタゴ(現在のチュニジア)だった(前九世紀―前二世紀)。ローマとのあいだに地中海の覇権を争う激しい闘争がおこなわれ、ローマは、三次にわたるポエニ戦争で、カルタゴ国家を根こそぎ壊滅させた。そのローマも、結局は、同じ地に都市カルタゴを再建し(前四五年)、それがローマ帝国第三の大都市といわれるまでに発展して、地中海支配の重要な拠点となった。
その後、ゲルマン族の侵入やビザンチン帝国による征服などの一時期はあったが、この地域を襲ったもっとも大きな波は、中東に源流をもつイスラム・アラブの、七世紀に開始された西方大進出である。この波は、北アフリカを支配し、さらに海を越えて、イベリア半島(現在のスペインとポルトガル)やシチリア、バルカンの一部など、ヨーロッパ南部をも広くその圏内におさめ、地域ごとに、いくつかのアラブの王朝がうちたてられた。
しかし、そのなかでも、政治的に、また宗教的に、この大進出の最大の拠点となったのは、やはりチュニジアだった。チュニジアのアラブ王朝が首都としたカイラワンに建設された大モスク(イスラムの寺院)は、中東地域のメッカ、メディナ、エルサレムにつぐイスラム世界第四の聖地と位置づけられた、という。
十六世紀以後は、同じイスラム王朝でも、オスマン・トルコの支配がうちたてられ、トルコ支配の衰退とともに、一八八一年以後、支配者がトルコからフランスに移行する。この波乱の歴史の最後を彩るのは、一九三〇年代以降に本格化する反仏独立闘争であり、その輝かしい結実としての、一九五六年の独立・主権国家チュニジアの確立である。
カルタゴ以来の二千数百年は、日本でいえば、縄文時代から現代にいたる歴史的時間だが、そこでの波瀾万丈にはケタ違いのものがある。フェニキア文化、ギリシア・ローマ文化、ビザンチン文化、アラビア・イスラム文化、フランス文化などが波状的に押し寄せたというだけでなく、さまざまな民族がたえず流入し、壮大な合流・変転のなかで今日のチュニジアとその社会が形づくられてきたわけである。
チュニジアの人たちは、「わが国を理解するためには、歴史を見てほしい」ということをよく言う。たしかに、その波乱の歴史を抜きにして、アフリカ、ヨーロッパ、中東、アジアの諸地域と多面的な交流関係をもち、イスラム世界でも独自の地位をしめる今日のチュニジアを語ることはできないだろう。
さまざまなことに思いをめぐらせながら、七月二十六日午後、チュニジア訪問の代表団は、成田空港を飛び立った。同行は、緒方国際局長・参院議員、森原公敏国際局次長、尾崎芙紀国際局員。現地で、「しんぶん赤旗」のパリ特派員浅田信幸さん、カイロ特派員の小泉大介さんが合流する予定である。