2003年8月30日(土)「しんぶん赤旗」
その民主的社会主義党が、一九九八年、連邦議会の選挙で、5%条項を突破して、ドイツ国会に三十六議席を得た。私たちにとって、これは本当にうれしい知らせだった。
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ドイツの総選挙は、小選挙区比例代表制だが、日本とは違って、議席の総数は比例代表の得票で決まる。ただし、その得票率が5%を超えないと、比例代表の議席配分にはあずかれない。これが少数政党を切り捨てる5%条項である。
戦後の西ドイツでは、ドイツ共産党は、一九六八年の再創立以来、5%の壁が破れず、国会に議席をえることができなかった。ドイツ統一後、民主的社会主義党も総選挙に参加するようになったが、旧東ドイツ部分やベルリンではかなり高い得票率をえても、全ドイツ的には得票率が低下するため、やはりこの壁を破ることはできないできた。
それが一九九八年、ついに全ドイツ規模で5%を超える得票率をえることに成功したのである。これは、戦後のドイツ政治史にかかわる快挙だった。
しかし、次の二〇〇二年九月の総選挙では、残念ながら得票率が5%をわずかに割り、大部分の議席を失うという大後退に見舞われた。
ウィンター氏との朝の話し合いのなかで、私はこの問題にふれ、「昨年八月、中国で江沢民総書記と会談したさい、旧東欧時代の歴史をもつ社会主義政党の最近の成功として、あなたがたの一九九八年総選挙での前進の経験を、チェコ・モラビア共産党の二〇〇二年選挙での躍進とあわせて、紹介したものだった」と述べるとともに、「それだけに、その直後の九月の選挙で、あなたがたが5%の線をわずかに下回り、議席を大きく失ったという知らせを、悲しい思いで聞いた」と続けた。
ウィンター氏は、「小選挙区で二議席を確保したから、国会での地位をなくしたわけではないが、打撃は大きかった。これは、私たちの側に責任があった。今年の六月の第八回大会でその総括をおこない、新しい執行部も選出し、二〇〇六年総選挙での再起をめざす方針を決めた」と現状を語り、「不破さんがご存じのモドロウ氏はいまも元気で党の名誉議長をつとめています。チュニジアでの出会いを必ず伝えますよ」と、笑顔で続けた。
二日後、ウィンター氏から党大会の状況を報じた英語版の機関紙がとどけられた。“政治的復活(カムバック)をめざす路線を打ち出す”が表題だったが、誤った過去にも誠実に立ち向かい、理論を大事にする党だけに、困難をのりこえての健闘を期待したい。
「シャープ」を強調された集合時間は七時半である。朝食をすませ、急いで部屋に向かうと、エレベーターの前に、二人の黒人代表がいる。“人を見れば名刺を出せ”がわが代表団の合言葉、早速、名刺とあいさつを交わすと、私たちの名刺を見て、若い方の代表が顔を輝かせた。
二人は、コートジボワールの代表で、年配の人物は元駐日大使、若い人物は国会議員だという。「コートジボワール」とは象牙海岸という意味。ナイジェリアと同じくギニア湾に面して、以前はフランスの植民地、やはり一九六〇年に独立した国である。
エレベーター前での立ち話のなかで、「実は」と切り出したのは、若い国会議員の方で、「国会で日本担当の議員に選ばれたが、日本のことを知るツテがないので弱っていた。大会の期間中に、ぜひ話し合いの機会を持ってほしい」という注文だった。お安いご用である。彼らの宿舎は二階、そこで「あとで連絡する」と言って別れた。これも、アフリカとの新しい出会いである。(つづく)