2003年9月5日(金)「しんぶん赤旗」
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そこへやってきたのが、ベンヤヒア外相だった。三年前と昨夜と、二度会っただけだが、旧知の間柄といった印象である。簡単なあいさつのあと、外相は早速語りはじめた。
「チュニジアは歴史的にさまざまな外国勢力の侵略を受けてきた国、それだけに、文明の共存の必要性をもっとも強く痛感している国です。しかも、イスラムというのは、寛容と近代性をあわせもった宗教です」
熱をこめた話は続く。 「一昨年の米国同時多発テロ以降、イスラムにたいする国際社会の対応が問われる状況のなかで、日本共産党が対話と共存を外交の基本としている姿勢は、ますます重要になっています」。
私が、その話に共感を示しつつ、「平和のための国際的な共同にとって、異なる文明の間の平和共存に努力すること、自分の価値観を他に押しつけないことが重要です。私たちは、このことを、十一月に開催予定の日本共産党大会で綱領に書き込むつもりです」と語ると、外相は即座に、「ハンチントンのように、“文明の衝突”をとなえる議論もあるなかで、このことは非常に重要です」と応じた。
外相の話は、チュニジアの歴史に移った。「チュニジアは、イスラムの歴史の要衝です。不破さんに機会があったら、ぜひカイラワンとマハディアの二つの都市を訪問してもらいたい、と思います」。
外相によると、この二つの都市は、イスラムの歴史のなかで、次のような意義をもつとのことだった(フランス語での会話だったので、外相は、最初の都市の名をフランス語読みの「ケルアン」と発音したが、アラビア語では「カイラワン」。ガイドブックでは、両方使われていて読者を戸惑わせるが、以下、アラビア語のカイラワンで通すことにする)。
――中東に生まれたイスラムが西方への進出をはじめたとき、最大の拠点となったのが、チュニジアの中部に建設した都市カイラワンだった。イスラムがチュニジアを越え、さらに西のアルジェリア、モロッコ、スペインにまで広がる上で、カイラワンに建設された大モスク(イスラムの寺院)が果たした役割は大きかった。モロッコのフェズにモスクが建設された時には、カイラワンから専門家がはせ参じたものだ。
――マハディアは、別の性格をもっている。北アフリカにおけるシーア派の最初の拠点となったところだ。戒律のきびしいシーア派は、チュニジア人にはなじめなかった。そこで、シーア派の信者を船に乗せてエジプトに送った。だから、チュニジアのイスラムは、ほとんどスンニ派だ。
こういう意味で、この二つの古都をぜひ見てもらいたいのだ、と言う。マハディアについての外相の話は、注釈がいる。
歴史の本によると、七世紀に始まったチュニジアのアラブ・イスラム王朝はずっとスンニ派だったが、十世紀のはじめにシーア派に打倒され、シーア派のファティマ王朝の時代が始まる。このシーア派王朝は、最初の時期に新都をマハディアに建設した。マハディアは、同じくチュニジア中部に属するが、地中海に突き出した小さな岬の上につくられた都市だった。
ファティマ王朝は、チュニジアの歴史では珍しく、覇権主義をむきだしにした軍事色の強い王朝で、宗派の異なる周辺のイスラム王朝に次々と攻撃の矛先を向け、ついにはエジプトを征服して、そこに都を移した。その時、チュニジアには、盟友の一人を総督として残したが、これがチュニジアの新王朝の出発点となり、新王朝がやがてスンニ派に改宗して、ふたたびスンニ派の時代がもどった。
外相がいう「シーア派の信者を船に乗せてエジプトに送った」というのは、この歴史を独特の比喩(ゆ)的な表現で説明したものなのだろう。
いずれにしても、イスラム化して以来の千数百年の歴史のなかで、シーア派が支配したのは、ファティマ王朝の成立(九〇九年)からエジプト占領(九六九年)まで、わずか六十年ほどの時期でしかないことになる。
文明について、歴史について、外相とすっかり話しこみ、気がついてみると、広い部屋にはほとんど人影が見えなくなっていた。すでに晩餐(さん)会は終了の時間となったらしい。「また会いましょう」と握手を交わして、私たちも会場を出た。(つづく)