2003年9月10日(水)「しんぶん赤旗」
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地図を見ながら探すと、「トフェ」(祭壇・礼拝所の意味)の遺跡は、例の軍港に近い一郭(いっかく)に見つかった。「トフェ」とは、幼児の遺骨が大量に発掘されたフェニキア・カルタゴ時代の墓地で、「幼児犠牲」伝説と結びつくものとみなされてきた聖域である。
ただ、伝説とならんで、カルタゴにこの悪習があったことを否定する説もあり、まだその真相については結論が出ていない、と聞いていた。
門をくぐると、案内の青年が出てきた。
この青年によると、この遺跡も、ユネスコの協力をえた一九七〇年代の発掘によって、幼児の墳墓としての規模や性格がいっそう明らかになったのだ、という。
遺跡の面積は、そう広くはないが、いたるところに石柱や墓標が林立しており、墓標でいっぱいの洞くつもある。墓標の一つひとつには、死んだ幼児の名前に、時には親の名もそえられ、石柱には、豊穣(ほうじょう)の女神・タニット神を象徴する図形や、生贄(いけにえ)を求める主神だといわれるバール・ハンモンを象徴する図形が刻まれている。
案内の青年の解説は、だいたい「幼児犠牲」伝説にそったものだが、新しい発掘もまだ決定的な証拠を得るにはいたっていないことが、その説明の端々から、うかがわれた。青年に、「あなたの説明したことをまとめた解説資料はないのか」と聞くと、「ない」との返事。
それ以上の探索はあきらめて入り口にもどってみると、管理者の建物の壁に、解説文が張ってあるではないか。フランス語、英語、アラビア語で、図版をそえたかなり詳細な説明のようだ。早速、それを写真にとり、あとで研究することにして、案内の青年と別れた。
解説文を読んでみると、「トフェ」が、幼児の骨や遺骨の灰をおさめた聖域であること、この「トフェ」の主神が、問題のバール・ハンモンではなく、女神タニットであり、聖域そのものが「タニットの部屋」と呼ばれていたことなどは、はっきりしたものの、「幼児犠牲」伝説の真偽を検証できるだけの事実は、まだ明らかになっていないようだった。
解説文は、この問題は未解決だとして、こう記していた。
「残念ながら、碑文以外には何のポエニ〔フェニキア人のこと−不破〕文献も残っていない。石灰岩の石柱と碑文の形跡を研究してきた一部の学者たちは、その形跡が昔のもの書き〔「幼児犠牲」説をとなえたプルタルコス、ディオドロスなどギリシアの歴史家たちのこと−不破〕の説明と一致している、と信じている。他の学者たちは、カルタゴ人の説明と矛盾する外国人の説明は、客観的でも信頼できるものでもない、と信じている」
ともかく、これまでの伝説は、もっぱらカルタゴを敵視していたギリシア・ローマ側の文献によるという制約をもっていた。ある案内書が示唆していたように、たしかに「商業民族」としてのカルタゴの合理性と、「幼児犠牲」の凄惨(せいさん)な非合理性とのあいだには、一種の違和感がある。
解説文は、フェニキア人が地中海のほかの地域に残した「トフェ」の発掘などが、問題解決の新たな情報を提供するかもしれないとの希望の表明で、説明を結んでいた。
私たちも、より広い考古学的な研究が、やがては、歴史の波のなかに消えたこの一時代の真実の発見につながることを期待したいものである。
陽(ひ)の落ちる時刻も近い。カルタゴ探訪は「トフェ」で打ち切って、ドイツのウィンター氏にすすめられた“シディ”に車を走らせた。“シディ”とは、正確にはシディ・ブ・サイトと呼ばれる名所だった。カルタゴの東北に位置する丘の上である。
みやげ物店の並ぶ通りで車を降り、ゆるい坂道を進み、道の終点近くで右側の門をくぐると、目の前に一気に大展望が開けた。
広い斜面が一つのカフェ(喫茶店)になっていて、一段一段、ゴザを敷いた長いすの席が設けられている。そこからチュニス湾やカルタゴ海岸、対岸に霞(かす)むボン岬半島などの広大な風景を展望する、というしかけである。
まだ空は明るいが、太陽は丘の後ろに隠れて、日中の四五度の暑さはどこへ行ったのか、と思わせるような涼しさ。そこで、チュニジア独特の「松の実茶」(ミント入りの甘いお茶に松の実を浮かせたもの)をすすりながら過ごしたひと時は、久方ぶりの「エレガント」な時間だった。(つづく)