2003年9月20日(土)「しんぶん赤旗」
〈問い〉 戦前の政治家が戦後政治にも登場して影響力を行使してきたと聞きますが、太平洋戦争を推進した東条内閣の閣僚はどうなっていますか。(埼玉・一読者)
〈答え〉 東条英機内閣は、日本の侵略拡大で国際緊張が高まる中、御前会議で対米開戦を決定したものの総辞職した近衛文麿内閣の後を受け、一九四一年十月に発足しました。同年十二月に対米英戦争を開始、四四年七月に小磯国昭内閣と交代するまで、アジア・太平洋への侵略戦争を推進しました。
首相・陸軍相・内務相などを兼ねた東条英機は戦後、東京裁判の判決により処刑され、禁固の東郷茂徳(外務相・拓務相)は五〇年に病死。橋田邦彦(文部相)、小泉親彦(厚生相)は戦後すぐに自殺しました。
しかし、日本をソ連・中国に敵対する戦略拠点にしようとアメリカが政策転換するなか、終身刑の嶋田繁太郎(海軍相)や星野直樹(書記官長)、鈴木貞一(国務相・企画院総裁)、賀屋興宣(大蔵相)は釈放され、賀屋は衆院議員から六三年〜六四年の第二次・三次池田勇人内閣の法務相に就任しました。禁固七年の重光葵(外務相)は五〇年に出所、衆院議員から五四年に鳩山一郎内閣の副総理・外務相となっています。
A級戦犯容疑者として逮捕されながら釈放され、公職追放されていた岸信介(商工相)は、追放解除後の五三年に衆院議員となり、保守合同後の自民党初代幹事長に就任、五七年から六〇年まで首相を務めました。
公職追放された閣僚では、内田信也(農商相)が衆院議員から五三年に第五次吉田茂内閣の農林相、大麻唯男(国務相)が五四年〜五六年の第一次〜三次鳩山内閣の国務相、井野碩哉(農相・拓務相)が参院議員から五九年に第二次岸内閣の法相となっています。後藤文夫(国務相)や青木一男(国務相・大東亜相)、湯沢三千男(内務相)も参院議員となりました。
戦争推進内閣の閣僚が戦後も自民党政治の中心的役割を担ってきたことは、政治の後進性の重要な一因です。
(水)
〔2003・9・20(土)〕