2003年9月25日(木)「しんぶん赤旗」
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到着第七日目・八月二日。いよいよ帰国の日である。チュニス空港は昼すぎの出発の予定。少し早めにホテルを出た。
空港では、見送りの外務省アジア局のムハマド・アンタル次長と別れのあいさつをかわす。
アンタル氏は、今回の訪問が両党関係の今後にとって大きな意義をもったことを強調し、「日本とのよい関係」への希望を熱意をこめて強調する。私は、七日間に経験した多くを思い起こしながら、訪問を通じて、チュニジアの国際的地位について、またその背景となっている歴史と文化について、理解を深めることができたこと、今後さらに友好関係を深めたいことを、述べた。
ハマム氏も、見送りに現れる。本当に七日間、お世話になった。「今度の各国代表団受け入れでは、どの国ぐにを担当するか、多くの人は割り当てで分担を決めているんですが、私は、自分であなたがたを選んだんですよ」と、途中でさりげなく言っていたが、その言葉にふさわしい、親身の、しかも確実な世話をしてくれた。世話だけでなく、たとえば、カイラワンへの往復の数時間にのぼる車中のなかでの対話で、チュニジア社会についての、公式の日程ではえられない生きた情報を多彩に提供してもらったことも、私たちのチュニジア理解への貴重な助けとなった。
いまも印象深く記憶に残っているいくつかの話がある。一つは、ハマム氏が、自分の経歴を話した時のことだ。「自分は一九六〇年の生まれ、当時は人口の70%が貧困層だった。私の家も貧しかったから、十歳からナブールで陶器に模様を描く仕事につき、小銭をかせぎながら学校に通った。いまでは、チュニジアの貧困層は4・2%にまで減っている」。自分が生きてきた経験の裏付けがあるだけに、独立後半世紀のチュニジア社会の変化が分かる話だった。
チュニジアの将来戦略についての意見も、興味深かった。「チュニジアは資源のない国で人材がすべて。高齢化が進むヨーロッパに若い働き手を供給できるよう、人材の養成につとめるのが、国の目標なんです」という。ハマム家での子どもたちが、どんな人間に育つことを望んでいるか、と聞くと、即座に「世界市民で、チュニジアを愛する人間」という答えが返ってきた。二人の子どものうち、上の子は十一歳だが、ギターとスペイン語を勉強しているとのこと。なんとなく、独立チュニジア社会の前向きの流れがうかがえる。
時間が来た。アンタル、ハマム両氏と別れの握手をかわす。浅田、小泉両特派員ともここで別れ、二人は、少しあとの便で、それぞれパリとカイロに向かうことになる。別れは、いつもつらいものである。
帰路はドイツのフランクフルト経由。チュニスからフランクフルトまでは二時間半の空の旅。まず地中海を見下ろしながら、「チュニジアの七日間」をふりかえった。
私にとって、チュニジアは、まったく“新しい世界”だった。
到着の日に、ホテルで私を迎えてくれた小野大使が、「チュニジアを、いまこれだけ長く訪問するとは、よく決断したもの」との感想を、緒方さんに述べたということをあとで聞いた。たしかに、緒方さんと私の訪問は、チュニジアと日本が国交を結んで以来、国会議員のチュニジア滞在日数としては最長の記録となったらしい。
しかし、この“新しい世界”を理解するには、七日間は、けっして長い期間ではなかった。
道理のある外交をすすめるためには、相手の国と社会を、内面から理解する努力、歴史のなかでつちかってきたその国自身の“論理”をつかみとる努力が、なによりも重要だ。自分のもっている価値観や論理がすべてとする態度では、二十一世紀の世界に通じる外交ができるはずがない。
その意味では、ベンヤヒア外相が、「チュニジアの歴史と文化を見てほしい」とすすめたのは、痛いほどに理解でき、共感できた。カルタゴの探訪も、カイラワンへの訪問も、「歴史の厚い重みをもった」チュニジアの現在を理解する上で、やはり欠くことのできない日程だった、というのが、訪問を終えての実感である。
もう一つ、この七日間を通じて痛感したのは、国際政治のなかでのチュニジアの地位の重さだった。連載の第一回で、チュニジアが、古代カルタゴの時代から地中海の戦略的要衝だった歴史について述べたが、現代のチュニジアにも、新しい条件のもとで、その重要性は引き継がれている。
アフリカ諸国との多面的な関係、イスラム世界での地位、中東との密接な関係、ヨーロッパ諸国との歴史的な関係などなど、ここからそれぞれの世界を見ると、現在の世界の新しい側面が見えてくる思いをすることが、しばしばだった。
とくに今回の訪問では、大会に参加したアフリカ諸国の多くの代表団と交流ができたが、五十数カ国からなるアフリカは、私たちの野党外交にとって、まだまだ未開拓の国ぐにの多い大陸である。
私たちが、野党外交に本格的に取り組んでから、まだ四年。その前途には、まだまだ未開拓の多くの課題が横たわっている。チュニジアという“新しい世界”との今回の交流を、活動のさらなる発展に生かさなければ――そんな思いを胸に、アフリカ大陸を離れたのだった。(おわり)