日本共産党

2003年12月6日(土)「しんぶん赤旗」

シンガポールでの日本軍による虐殺とは?


 〈問い〉 日本のイラク派兵を憂慮するシンガポール紙特派員が日本軍の占領中の虐殺に触れていましたが(本紙1日付14面)、どんなことがあったのですか。(長野・一読者)

 〈答え〉 一九四一年十二月八日、日本軍は真珠湾攻撃の数時間前からマレー半島の上陸作戦と並行してシンガポールを空爆し、半島南下作戦の末、四二年二月十五日にシンガポールを占領しました。山下奉文司令官の第二十五軍は、直後の二月十九日に司令官名の「布告」を市内に張り出すなどし、中国系住民に二十一日正午までに指定地へ集合させました。

 日本軍は「良民登録」のための「検証」だと説明しましたが、実際には「検証」現場を封鎖し虐殺対象者を選別しました。氏名を英語で書いた者や眼鏡をかけた者は「知識人」で「抗日」だろうといった基準で集めた人々を、トラックで人気のない海岸などに運び、まとめて殺害しました(中島正人『謀殺の航跡─シンガポール華僑虐殺事件』など)。犠牲者には女性や子どもも含まれています。

 「華僑(中国系住民)粛清」と称したこの作戦の前後にも虐殺がありました。犠牲者総数は不明で、五万人の処刑計画があったとの供述などが残ります。マレーシアでも大規模虐殺が各地で実行されました。

 一九六〇年代、シンガポールでは工事現場などで大量の遺体発見が相次ぎ、犠牲者を悼む記念碑が建てられました。碑文は四言語で、中国語では「日本占領時期死難人民記念碑」と刻まれています。当時、冷淡な日本政府に怒った市民の「血債追討」(血の償いは血で果たせ)のスローガンなどから「血債の塔」とも呼ばれます。

 日本軍がシンガポールやマレーシアでも住民を大量虐殺したことは、これらの国々の教科書が数ページにわたり記述しています。日本軍占領時代に家族や親族を殺害された記憶は、虐殺対象者を選別した「ケンペイタイ」(憲兵隊)などの語とともに、今も人々の心に焼きつけられています。

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 〔2003・12・6(土)〕


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