2004年1月15日(木)「しんぶん赤旗」
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イラク派兵反対を訴え、滋賀県志賀町から、二十三日間をかけて八百五十キロを歩き通した同町の広瀬友重さん(64)が十四日夕、東京・永田町の国会議事堂前に到着しました。手には「日本国の平和憲法を守れ イラク派兵反対 もうこれ以上悲しい死はごめんだ」の旗ざお。日に焼かれ、ひげは伸びて顔は真っ黒です。「きついこともあったが、道中は道行く人にも励まされ最後まで歩き通せました」と広瀬さん。引き続き国会前で一週間の断食でイラク派兵反対を訴えます。
広瀬さんは志賀町でマリンスポーツ店を経営。自らも琵琶湖完全縦断や日韓海峡完全横断に挑み、成功させてきた“冒険家”です。その広瀬さんが大行進を思いついたのは十二月二十日のことでした。
「外交官の殺害で中止されると思っていたのに予想外のことだった。このままイラクに自衛隊を派兵してしまえば、日本が世界に誇る憲法がなきものにされてしまう。まず自分でできることをやろうと思ったんです」
広瀬さんの胸の底にあったのは、再び日本を戦争に導いてはいけない、という強烈な思い。それは自身の敗戦時の悲惨な体験があったからです。
敗戦を迎えたのは「満州(中国東北部)」。
当時小学校一年生。引き揚げのため貨車に乗ったところ、機銃掃射を受けました。母親は中国の八路兵に連行され、同行していた社長は日本軍に協力していたとして逮捕。目の前で射殺されました。「戦争の醜さ、つらさ、惨めさ、悲しさ、さみしさを本当に肌で感じてきたんです」
大行進の出発日は昨年の十二月二十三日。たった一人だけの出発でした。テントをかついでの野宿生活。雪が降ったときもありました。寒風にさらされた日や暴走族の騒音で寝付けない日もありました。六十五キロあった体重も六十キロに。テントやカサ、懐中電灯、着替えなど二十キロの装備での行進でした。
「つらくはなかったですね。若者が一緒に歩いてくれたりして…。励ましてくれた人がいっぱいいたんです」と広瀬さん。
出発から二日目には早くも愛知県の青年から「一緒に歩こう」という提案がありました。愛知県西尾市では青年三十人がもちをたべ、歌を歌いながら広瀬さんの話を聞きました。「派遣される自衛官は死を押しつけられるようなもの」と語ってくれた元自衛官もいました。
広瀬さんはいいます。
「出発は一人だったけど、歩いてみて本当に多くの人が派兵に反対していることが実感できた。この声を無視してこのまま自衛隊の派兵を許していいのか。国会の前でこの思いを訴え、断食という形で命をかけて何としてもやめさせたい」