2004年4月8日(木)「しんぶん赤旗」
通常国会後半の焦点の一つとなる、年金問題の審議が始まろうとしています。
これにあわせ各新聞も社説で年金問題を取り上げ、「年金審議――一元化の土俵で議論を」(「朝日」二日付)、「『百年の計』を政争の具にするな」(「読売」三日付)、「具体的な年金改革論議を重ねよ」(「日経」三月二十八日付)などと主張しています。各新聞はこの問題をどう議論しようというのでしょうか。
小泉内閣が提案した年金改悪法案にたいする各新聞の評価は、おおむね厳しいものです。
「国会に出された政府案は負担増と年金水準のカットが柱で、制度の不備にはまったく手をつけていない」(「朝日」)、「『抜本改革』とは言い難い」(「読売」)。各紙の批判には、「安心」や「安定」とは無縁な政府の改悪案にたいする、国民の声も反映しているのでしょう。
小泉首相が法案審議の直前になっていいだした年金制度の「一元化」論について、各新聞で議論の「共通の土俵に」(「朝日」)すべきだとか、「あまりに唐突な提案だ」(「毎日」三日付)と活発に議論されているのも、政府の年金法案が「抜本改革」とは程遠いことを示すものです。
にもかかわらず見過ごせないのは、各新聞が政府案に不満は鳴らしつつ、「年金改革にバラ色の処方箋(しょほうせん)を期待しても無理なことは、誰もが分かっている…高齢世代、現役世代、将来世代が痛みを分かち合うしかない」(「読売」)などとしていることです。結局は政府の主張する、「制度を持続可能にするには、負担と給付のバランス」が必要といった議論の枠を出ていないのです。
「一元化の土俵」で議論しなおせという「朝日」も、「保険料の引き上げを見送れば、結局、これからの年金の支え手となる若い世代の負担を重くすることになる」と、当面は負担を増やし、給付を削る政府案については「時限立法」として認めていく立場です。「産経」七日付主張も「『抜本改革』の呪縛(じゅばく)を脱し、当面の改革であることを明確にして」法案の審議をと求めています。
年金問題について政府は、負担増と給付削減を繰り返し、“逃げ水”と称されるほどの年金不信を招いています。その年金問題を議論するのに、政府と同じように、「負担と給付のバランス」をどうとるのかという議論の枠内にとどまっていいのか。政府案は自動的な負担増・給付減の仕組みまで導入しようとしていますが、「負担と給付のバランス」の名でそれを許せば、それこそ年金制度を崩壊させることになります。
年金財政悪化の背景には、リストラなどによる雇用破壊などで、青年など年金の支え手が減少していることがありますが、このことにメスを入れない「負担と給付のバランス」論では、年金制度を将来に向かって安心する制度にできないこともあきらかです。「バランス」論の枠内では、大企業による雇用破壊や少子化に手をこまねいている政府の責任を免罪することにもなります。
もともと年金など社会保障は、憲法二五条が明記した国民の生存権を保障するものですが、なによりその立場に立ってどんな年金制度が必要か、そこまで踏みこんでの議論を求めないのでは、いくら年金問題は「百年の計」といっても、その実質は乏しいといわなければなりません。
今日の年金制度の最大の問題点は、日々の生活をとうていまかないきれない低額年金、無年金の人々が膨大な数にのぼっていることです。こうした国民の生存権を保障することこそ年金改革の最優先課題であり、その視点を貫いた論議こそ、いま求められています。
日本共産党はこのほど発表した「『最低保障年金制度』を実現し、いまも将来も安心できる年金制度をつくる」の政策で、すべての国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するという憲法の精神に立った年金制度の実現に第一歩を踏み出すことを求めました。
各新聞が日本共産党のこの提案をせいぜい一段見出しの短い記事としてしか報じなかったところにも、国民の生存権保障という立場に立ちきれない各紙の姿勢が表れていないでしょうか。
国会での年金審議の本格化にあわせ、各新聞でも年金問題が活発に論議されるのはおおいに望ましいものですが、そのためにも国民の生存権を保障するしっかりした立場が求められます。
(宮坂一男)