2004年4月15日(木)「しんぶん赤旗」
ロイター通信は十二日、米軍の包囲・攻撃にさらされたイラク中部ファルージャの様子を、同地からバグダッドに避難して間もない市民から聞き、次のように報じました。
「路上に放置されたままの遺体をたくさん見ました。何百とありました。親族も怖くて引き取りに行けないのです」とサミル・ラベーさんは語ります。他の八家族とともに保冷車の後ろに隠れ、バグダッドにたどり着きました。
ごみごみしたスラム街の一角に、三十五人が身を寄せ合っています。
「ファルージャには三十年いたが、(五日からの)先週一週間に毎日目撃したようなことは、経験したことがありません」と年配女性のキファヤ・イラウィーさん。「ある日、砲弾が隣家の玄関のドアをごう音を立てて直撃し、これで立ち去る決心をしたのです」
米軍機がうなりを立てて頭上をかすめ、ヘリコプターが町じゅうの「標的」に射撃を加えていたこと、子どもたちを抱きしめて階段下に身を潜めた長い夜…。集まった人々は口々に語ります。
「遺体の多くはスポーツ競技場か家々の庭に埋めるしかありません。ほかにどうしようもないのです。愛する者の遺体を引き取りに行くには、あまりに危険な状態なのです」とラベーさん。
米軍の掃討作戦は、すでに反米感情の強かった町の怒りを何倍にもしていると、避難してきた人々は指摘します。ナダ・ラベーさんも「米軍が来たときは反抗ゲリラといってもせいぜい五十人でした。先週末には数千人になっています。状況を悪化させたのは米軍です」と言います。
多くのイラク国民と同様、長年にわたって戦争状態を体験してきたファルージャ市民にとっても、これほど家の前まで近づいた戦争はありませんでした。年金生活者のサイダ・モフセンさんは「今度の戦闘ははるかにひどい。家を離れることにしたのは初めてです」と語りました。
サミル・ラベーさんらは、イスラム教徒にとって神聖なモスクの尖塔(せんとう)に米軍の狙撃兵がいたのを目撃しています。
「ある家を砲弾が直撃し、もう一発がわが家の近くに着弾しました。戸口にいた私はすぐさま地面に伏せましたが、りゅう弾の破片がもう一人の腹部を襲いました」―ラベーさんは自分の体験を語りながら、ファルージャに残った隣人のその後を心配していました。