2004年5月22日(土)「しんぶん赤旗」
〈問い〉 イラクへの自衛隊派兵に関連して、防衛庁の姿勢や報道のあり方をめぐり「大本営(だいほんえい)発表」ということがいわれています。それはどういうことですか?(京都・一読者)
〈答え〉 大本営は、戦争または事変に際し、天皇を補佐するための最高統帥機関で、一八九三年(明治二十六年)、勅令「戦時大本営条例」で法制化され、一年後の日清戦争時に初めて設置されました。日中戦争開始後の一九三七年(昭和十二年)には、大本営陸海軍部に「報道部」がそれぞれ設けられ、その中の「内国新聞発表係」が行う公式発表が「大本営発表」の始まりです。
大本営報道部の発表は当初、陸海軍が個別に名前でしていましたが、太平洋戦争開戦から約一カ月後の一九四二年一月十五日の発表から陸海軍部の区別をしないで「大本営発表」と一本化されました。
「大本営発表」は、太平洋戦争中の四十五カ月間に八百四十六回にのぼりました。最初の半年間、戦果や被害の発表は比較的正確でしたが、その後、戦果が誇張され、やがて日本側の損害はほおかぶり、架空の“勝利”が誇示されたのです。それがピークに達したのはフィリピン沖海戦で、すでに日本海軍は壊滅していたにもかかわらず、ウソ八百の勝利が流されました。
戦争の全期間を通じ、「大本営発表」によって報じられた“戦果”は、戦艦、巡洋艦は十・三倍、空母六・五倍、飛行機約七倍、輸送船約八倍に水増しされたとの計算もあります(前坂俊之著『言論死して国ついに亡ぶ』など)。
侵略戦争に国民を総動員するためには、国民に対し不利な情報をすべて隠し、逆に情報を捏造(ねつぞう)して戦意の高揚をはかろうとしたのです。そのために、内閣情報局に過大な権力が与えられ、新聞、放送の検閲が強化され、“内面指導”と称し、きびしい報道管制が押し付けられたのです。このもとで、日本の報道機関が、侵略戦争遂行の宣伝機関になり下がった責任は重大です。(金)
〔2004・5・22(土)〕