2004年8月5日(木)「しんぶん赤旗」
〈問い〉 戦前、槙村浩という詩人が朝鮮の独立運動に連帯した詩を書いたと聞きました。どんな人だったのですか?
(岡山・一読者)
〈答え〉 槙村浩(本名・吉田豊道、1912〜38)は高知県生まれで、英才教育で知られた土佐中学、リベラルな校風をもった岡山市の関西中学などに学び、31年、19歳で日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加、おもに高知県で活動しました。
文学活動とともに日本共産青年同盟に加盟、高知市にあった歩兵44連隊で反戦ビラをまくなどの活動をしながら、「生ける銃架」(31年)、「出征」「間島(かんとう)パルチザンの歌」(32年)など、国際連帯のかおり高い、今日でも高く評価されている反戦詩を次々に発表します。しかし、逮捕され、獄中で病気となり26歳で精神病院で死去しました。
当時、日本は、朝鮮、台湾などの植民地にたいし、過酷な搾取と抑圧をおこなうとともに、人民の抵抗にたいしては残虐な血の弾圧を加えていました。たとえば、朝鮮人民が、1919年3月1日から「独立万歳」をさけんで朝鮮全土で独立運動をおこしたとき、天皇制の軍隊は、容赦なく銃火をあびせ、8千人近い人を殺し、多くの人びとを投獄しました。
日本共産党は22年、党創立と同時に「シベリアからの撤兵、朝鮮人民の独立闘争支持」の旗を掲げ、各地で勇敢にたたかいました。30年ごろから、青年学生の反戦運動も急速にもりあがり、共産青年同盟は先頭にたちました。今野大力、今村恒夫、槙村浩などの詩人もそのなかにありました。槙村は32年4月ころ、日本共産党に入党。同年3月1日の「満州国建国宣言」に抗議し「間島パルチザンの歌」を詠んだのです。その一節―
おお3月1日! 民族の血潮が胸をうつおれたちのどのひとりが 無限の憎悪を一瞬にたたきつけたおれたちのどのひとりが 1919年3月1日を忘れようぞ! その日 「大韓独立万才!」の声は全土をゆるがし 踏み躙(にじ)られた日章旗に代えて 母国の旗は家々の戸ごとに翻った…
(喜)
〔2004・8・5(木)〕