2004年8月16日(月)「しんぶん赤旗」
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八月十五日。人々は五十九年間、戦没者を悼み、非戦平和を胸に刻んできました。その歴史の流れに逆らうように浮上したのが自民、公明、民主三党の改憲の動きや自衛隊の多国籍軍参加。再び戦没者と遺族をつくる方向へ、曲がり角に差しかかったかにみえる「8・15」の光景とは――。
憲法九条は父が残した遺言です―。愛知・岡崎市の内田喜由さん(64)はそう思っています。十五日、平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会(平和遺族会・嶋田祐曠代表)の東京での行動に、初めて参加しました。
ふりしきる雨のなか、同会は文京区内で街頭宣伝をおこないました。内田さんは「政府は二度と戦争をおこさないといったにもかかわらず、イラクに自衛隊を派兵し、憲法九条を変えようという。戦争の犠牲者は出さないでほしいという私たち遺族の思いを知ってほしい」と、道行く人に訴えました。
内田さんの父親、正雄さんは、日本が中国への全面侵略を開始した一九三七年に召集され、負傷して除隊。
結婚し、四〇年に喜由さん、翌年妹が生まれました。しかし、家族の暮らしはつかの間。四三年再び召集され、西ニューギニアで戦病死。三十四歳でした。
父が出発した時、喜由さんは三歳。最後尾のデッキから身を乗り出して手をふる父の姿を鮮明に覚えています。「あれがお父ちゃんだよ。よく覚えておくんだよ」と、母はほっぺをたたきながら叫びました。
かえってきた白木の箱には、申し訳程度の赤茶けた塊一片―。
父を失い、空襲で家財を失った親子の暮らしは母が、二交代の機織りで支えました。
中学卒業後働きはじめてからは、立ち止まる時間もなく、つらい記憶にふたをしてきました。が、「昨年介護していた母も亡くなり、父の足取りをたどりたくなった」。二年前愛知で「平和遺族会」の支部をつくり、遺族の手記集『平和への手紙』を発行しました。
来月、父の戦没地西ニューギニアを訪ねます。「迎えにきたよっていいたい。母も連れていってやりたかった」。くちびるをかみしめます。
「父の死は犬死にだったのか。そう思ったこともあった。でも、父をはじめ多くの犠牲の上に憲法九条はつくられた。地球上から戦争をなくすまで私の中の戦争は続いています」
この日、平和遺族会の行動には三十人が参加。戦没者追悼式に参加し、千鳥ケ淵墓苑に献花。「戦後五十九年間、日本人が戦争で殺されることも、日本が外国人を殺すこともなかったのは平和憲法があったからです」として、「憲法九条をまもり、世界に広げよう」とよびかける声明を発表しました。