日本共産党

2004年8月18日(水)「しんぶん赤旗」

戦後すぐの読売争議って?


 〈問い〉 先日の読者の広場の「選手会の要求、断固支持」という投書に「戦後の読売争議の教訓」とありましたが、どんな争議だったのでしょうか? (東京 一読者)

 〈答え〉 「読売争議」とは、終戦直後の1945年から46年、社首脳陣の戦争責任の追及と社内民主化を求めて、読売新聞社内で起きた闘争です。

 戦後、ほとんどの新聞社は、戦時中の軍部追従、侵略戦争美化について、きわめて不徹底な反省にとどまりました。このなかで、読売新聞社の労働者は正力松太郎社長以下幹部の戦争責任を追及し、社内機構の民主化に立ち上がりました。この争議は45年暮れ、組合側の勝利となり、経営協議会を設けて労働者が経営に参加、編集を資本から分離して「読売新聞」が「民衆の友となり…人民の機関紙たること」を宣言します。商業新聞史上、画期的なことでした。

 翌46年5月の「アチソン反共声明」以後、GHQ(連合国軍総司令部)や当時の吉田内閣はこうした民主化を敵視し、弾圧に乗り出します。GHQのプレス・コード(言論統制規則)違反を理由に労働者から〈編集権〉を奪い返すため、組合役員ら6人を解雇、ついで16人を地方に左遷し、会社いいなりの御用組合を結成。戦後初めて警官隊5百人で新聞社を包囲し、組合幹部と執務中の社員56人を検束しました。

 組合側は、警察権力の圧迫と会社側の組合破壊工作に抗してがんばり、各労働団体も読売争議応援委員会をつくり、応援デモ、真相報告会などを活発におこないました。最後は、新聞・通信・放送ゼネストを計画しますが、「朝日」ほか大手新聞労組の脱落によって挫折し、組合幹部の自発的退社という形で128日間の争議は終結します。

 こうして、読売争議は勝利はできなかったものの、マスメディア労働者が戦後すぐに、二度とマスコミを権力の道具にしてはならない、戦争推進に加担してはならないとする労働者の強い社会的責任感を発露したものとして、特記されます。参考資料に、宮本太郎著『回想の読売争議―あるジャーナリスト』(新日本出版社)(喜)

 〔2004・8・18(水)〕



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