2004年8月30日(月)「しんぶん赤旗」
沖縄県宜野湾市で十三日に起きた米軍ヘリコプターの墜落。日本共産党の赤嶺政賢衆院議員(党沖縄県委員長)は直後に現場の沖縄国際大学へかけつけ、生々しい様子を目の当たりにしました。これまでの動きについて赤嶺議員に聞きました。 聞き手・山崎伸治記者
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――赤嶺さんは、事故後の現場周辺を長時間にわたって調査しました。
赤嶺 その日は午後二時から、伊波洋一宜野湾市長の訪米報告会に参加していました。始まってまもなく事故の知らせがあり、会場を飛び出して二十分後に駆けつけました。
墜落現場には近づけません。米兵が大学のフェンスを乗り越えて学内のキャンパスで警戒体制をとっており、近づこうとするとその米兵に阻止されるんです。「なぜ大学構内なのに米軍が管理し、排除するのか」と大学の職員たちが米兵ともみ合っていました。
消火活動をしたのも、負傷した米兵を運んだのも宜野湾の消防署でしたが、鎮火すると排除されました。米軍に指示されたのか、広範囲にわたって警察が警戒体制をとりました。私も日本の警察に止められ、「米軍から安全上問題があるといわれたから立ち入らないでくれ」といわれました。伊波市長も、当事者として住民の命と安全を守る義務があるから現場に入れよと強く要求しましたが、米軍に阻止されました。
付近の住民のみなさんはだれもが、自分の頭の上にヘリが落ちるという感覚で、もうだめだと思ったといいます。死の恐怖が住民を襲い、アパートや住宅から「逃げろ」という悲鳴がいっせいに上がったといいます。
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――米軍の横暴に、日本政府は地位協定の運用改善でごまかそうとしています。
赤嶺 政府の説明は、事故現場を米軍の管理下に置くのは地位協定二二条で認められているが、米軍にも行き過ぎがあったので運用改善を図りたいというものです。しかし管理権が米側にあるというのがそもそもおかしいのですから、地位協定の改定は当然です。
原因究明に欠かせない事故機の機体も日本側が検証できず、汚染された土壌も米軍が持ち去ってしまい、日本側が原因究明ができない。まるで米軍の占領状態です。
米軍は事故から十日もたたないうちに事故機と同型機の飛行を再開しましたが、県民の憤激に直面し、あわてて「適切な時期まで行わない」と発表しました。
一方で「三人の乗員は被害を最小限にしようと努力した」「素晴らしい功績」と在日米軍司令官がのべるなど、県民を愚弄(ぐろう)する態度を続けています。そもそも「安全第一」という考え方は、戦闘第一の軍隊と両立するものではありません。
――対照的に伊波市長をはじめ地元自治体の対応が注目されています。
赤嶺 事故に対する抗議・意見書は県内三十一の自治体で採択されていますが、二つの特徴があります。
一つは、普天間基地の閉鎖を要求する点です。
普天間基地が「世界一危険」であることは日米両政府でさえ認めています。伊波市長は事故の直後に「基地の閉鎖しかない」といいましたが、これは事故を体験した宜野湾市民の譲れない要求です。安保条約の是非を超えて、危険は一刻も早くなくさなければいけないということです。
もう一つは、SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意の「見直し」が多くの決議に盛り込まれたということです。
事故直後の地元紙の世論調査で、SACO見直し支持が93%にのぼり、名護市沖の新基地建設にたいする支持は6%にとどまりました。基地のない沖縄を実現したいという、明らかな県民世論の発展があります。
――そうしたなか、九月五日に開かれる宜野湾市民大会が注目されます。
赤嶺 宜野湾市内では七十三団体を網羅して実行委員会がつくられました。立場の違いを超えて開かれることに、全県下で共感も広がっています。事故の前にも、名護市辺野古で新基地建設反対のすわり込みが続き、金武町では都市型訓練施設建設反対の運動もありました。市民大会は新たな県民のたたかい、運動の広がりの転機となるでしょう。
米軍基地再編の動きの中で、深刻な実態は本土の基地にも広がっています。本土と沖縄の連帯したたたかいが、沖縄の現状を変えるだけでなく、基地国家・日本の現状を変える流れにもつながります。
沖縄のたたかいを全国の米軍基地の矛盾を打ち破る突破口とするよう、日本共産党と民主勢力の役割もいっそう重要になっています。