2004年9月8日(水)「しんぶん赤旗」
|
米海兵隊普天間基地(沖縄県宜野湾市)に隣接する沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故は、市民・県民に深刻な衝撃を与え、「危険な基地は県内のどこに移しても同じ」と、普天間基地の無条件撤去を求める世論が急速に高まっています。ところが、同基地の「県内移設」に固執する政府は、今週中にも移設先として狙う名護市辺野古(へのこ)海域でのボーリング(掘削)地質調査を強行し、巻き返しを図ろうと躍起です。沖縄県・浅野耕世記者
政府が海底のボーリング調査を狙う辺野古海域は、サンゴ礁の広がるエメラルドグリーンの海。天然記念物のジュゴンの大切なえさ場の海草・藻場が広がっています。この豊かな海のリーフ(サンゴ礁の浅瀬)に、六十三カ所ものやぐらを組み、ボーリングを実施しようとしているのです。
沖縄県がおこなった専門家への意見聴取では、「サンゴ礁は死滅することになるので、中止すべきである」など批判的な意見が相次ぎました。
しかし、「辺野古移設」を推進する自民・公明党の稲嶺県政は専門家の意見を無視して辺野古海域の使用に合意。政府は四月十九日に、一度はボーリング調査を実施しようとしました。しかし、地元住民の激しい抗議と座り込み行動によって調査着手を許さず、政府の思惑通りには進みませんでした。
こう着状態が続くなかで、八月十三日に宜野湾市での米軍ヘリ墜落事故が発生しました。
宜野湾市議会は、普天間基地の早期返還とともに、同基地の県内移設を決めたSACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意の見直し、辺野古沖移設の「再考」を求める意見書を全会一致で採択しました。
それを皮切りに、沖縄県内五十二市町村のうち三十五議会が普天間基地の早期返還、米軍機の飛行中止を求める意見書・決議をあげ、そのうち十五議会がSACO合意の見直しを求める決議をおこないました。
日米両政府や県が推進するSACO路線への批判が広がるなか、国は普天間基地を早期に返還するためには「辺野古移設がもっとも現実的だ」として、同基地の県内たらい回しの推進にいっそう固執しています。
名護市議会や辺野古周辺住民への説明会で、那覇防衛施設局は、ジュゴンや海草など「周辺地域の環境に配慮する」と盛んに強調しました。
しかし、ボーリング調査自体が辺野古海域の生態系に重大な影響を与えることは、先に県が聴取した専門家の意見でも明らかです。
さらに重大な問題は、辺野古沖につくられる新基地は、長さ約二千五百メートル、幅約七百三十メートルを埋め立てるもので、いくらボーリング調査の段階で環境に配慮するといっても、ジュゴンの海はつぶされてしまうのです。
米軍ヘリ墜落事件後、「琉球新報」が実施(八月十八日、十九日)した緊急県民アンケートでは、「無条件撤去」が35・7%。「国外移設」が30%にのぼり、「辺野古沖移設」への支持は6%にとどまるなど、普天間基地問題をめぐる県民の意思が示されています。
1995年
・米兵による少女暴行事件が発生(9月4日)
・米兵暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する県民総決起大会に8万5000人(10月21日)
1996年
・SACO(沖縄にかんする日米特別行動委員会)最終報告に「沖縄本島東海岸沖」に普天間基地にかわる代替施設建設が盛り込まれる(12月2日)
1997年
・新基地建設の是非をめぐる名護市民投票。条件付きをふくむ反対派が1万6639票を獲得、過半数をしめ、条件付き賛成派を2372票上回る(12月21日)
1999年
・稲嶺知事、普天間基地の移設先は「米軍キャンプ・シュワブ水域内の名護市辺野古沿岸域」と発表(11月22日)
・岸本名護市長が新基地受け入れを表明(12月27日)
2000年
・国際自然保護連合(IUCN)が沖縄本島東海岸のジュゴンの調査・保護を日米両政府に求める(10月10日)
2002年
・政府の代替施設協議会で、新基地建設の基本計画を決定、名護市辺野古沖リーフ上での埋め立て方式で合意(7月29日)
2004年
・辺野古沖でのボーリング地質調査実施に県が同意(4月7日)
・辺野古の住民、名護市民などの座り込みが始まる(4月19日)