2004年9月9日(木)「しんぶん赤旗」
〈問い〉 先日の学問文化面のコラム「朝の風」に、勾留されたまま死んだ反戦川柳作家・鶴彬のことが書かれていました。どんな人だったのですか?(東京・一読者)
〈答え〉 「暁を抱いて闇にゐる蕾(つぼみ)」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い反戦川柳を詠んだ鶴彬(つる・あきら、1909〜38年)は、石川県高松町生まれで、本名・喜多(きた)一二(かつじ)といいます。
「暴風と海との恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動のたかまりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に。
日本が中国に全面的な侵略戦争を始めた37年には、「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲(びょう)」「屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい」(同年11月発行の川柳誌)などの作品を発表します。その直後にふたたび治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と同じ年の享年29歳でした。
出身地の高松町には「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑が建っており、「鶴彬を顕彰する会」もつくられています。
6年前、『鶴彬全集』を復刻した澤地久枝さんは本紙インタビューに、こう語っています。
「一番最後の句が『胎内の動き知るころ骨がつき』というのもすごいことです。身ごもった赤ちゃんの胎動がわかって生まれてくる日を予告しているというのに、父親は戦死しその遺骨が届く。子は父を失い母は夫を失う。戦争をみごとに突いた句です。…警察は謝れば出すのに、鶴彬は、結局志を曲げなかった。日中戦争が激しくなった38年9月14日に息を引き取った青年は、最後まで反戦の筋を通し死んでいった。ずいぶん痛ましい、しかしみごとな人生だと思います」(喜)
〔2004・9・9(木)〕