2004年9月16日(木)「しんぶん赤旗」
沖縄県宜野湾市で起きた米軍ヘリコプター墜落事故を受けて、米軍普天間基地の県内移設を決めた「SACO(サコ)(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意」の見直しを求める声が県内で高まっています。米軍ヘリ墜落事故に抗議し、3万人が集まった12日の宜野湾市民大会の決議にも「SACO合意を見直し、(普天間基地の名護市)辺野古沖への移設を再考すること」が盛り込まれました。いったいSACO合意は何を決め、墜落事故をきっかけに何が批判されているのでしょうか。
山崎伸治記者
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SACOは一九九五年十一月に設置されました。同年九月に沖縄で起きた米兵少女暴行事件に抗議して、十月には八万五千人が参加する県民大会が開催されるなど、「基地のない平和な沖縄」を求める県民世論のかつてない高まりが背景にありました。
その後一年間の議論を経て、九六年十二月に「最終報告」をまとめ、これが両政府の合意となりました。
しかし基地の削減・撤去という県民の切実な願いは裏切られます。この合意で打ち出されたのは、普天間基地など十一の基地の県内移設=たらい回しで基地機能をいっそう強化する方向でした。
なかでも焦点となった普天間基地は、同基地に代わる新たな海上基地(全長千五百メートル)を五―七年以内に沖縄本島の東海岸沖に建設し、その完成後に返還するとされました。つまり老朽化して、米軍にとって使い勝手の悪い普天間基地に代えて新しい出撃基地を建設するというもので、基地の危険も負担も県内に押し付けるものでした。
これに対し、九七年十二月の名護市民投票では、「新基地建設ノー」が過半数を占めました。しかし日本政府は“沖縄の負担軽減のためだ”と言い張り、膨大な「振興策」をばらまいて、県民世論を押し込めてきました。
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九九年十一月にはSACO合意の実現・推進を表明する稲嶺恵一現知事が「軍民共用」「十五年の使用期限」などの条件を付けつつ、新基地建設の候補地として名護市辺野古沖を最終決定。政府も同年十二月の閣議で新基地建設を決めました。
二〇〇二年七月には「基本計画」を決め、当初の計画よりもいっそう巨大な基地(全長二千五百メートル)を埋め立てによって建設することを決めました。
しかし、「五―七年以内」としてきた新基地建設には、県民の反対世論と運動があり、すでに期限とされた二〇〇三年を過ぎています。一方で、普天間基地の危険な実態は放置されたままとなっています。
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宜野湾市の伊波洋一市長は、九七年には一日平均六十四回だった同基地での飛行回数が二〇〇三年には百五回に増え、訓練が集中する平日の火、水、木曜に限れば九十五回から百四十九回へと一・五倍になっていることを示し、むしろSACO合意後に危険が強まっていると強調しています。
そのことが現実に示されたのが、今回の沖縄国際大学への墜落事故です。市街地上空で「通常の飛行訓練」を行っていたヘリコプターが墜落したことは、基地がある限り危険はなくならないことを改めて思い起こさせました。
事故直後から、宜野湾市をはじめ県内三十五市町村で事故に抗議する決議が採択されました。そのうち十五自治体で「SACO合意の見直し」を掲げ、さらに辺野古移設の「再考」「断念」「中止」まで求めた自治体もありました。
保革の違いを超えてこうした決議があがったのは、米軍基地がある限り危険はなくならず、SACO合意では県内にたらい回しされるだけで基地はなくならないことを、沖縄県民が見抜いていることを示しています。
地元紙などの世論調査でも合意見直し、辺野古移設反対が圧倒的多数です。これまでも新基地建設反対は多数でしたが、沖縄タイムスと朝日新聞が十四日に公表した結果では、事故を契機に移設反対が81%に急増。その理由として「沖縄の基地の削減にならないから」が35%、「自然を破壊するから」が37%などとなっています。
政府や沖縄県は新基地建設にしがみついていますが、もはや破たんは明白です。計画は撤回し、米政府に沖縄の基地の即時撤去こそ求めるべきです。