日本共産党

2004年9月22日(水)「しんぶん赤旗」

独ソ不可侵条約をどう考える?


 〈問い〉 1939年の独ソ不可侵条約について、ヒトラーとたたかうレジスタンスなどへ衝撃を与えたけれどソビエトを守るためには必要だったという話をかつて聞いたことがあります。日本共産党はいま、どういう見方をしているのでしょうか?(和歌山・一読者)

 〈答え〉 第二次世界大戦前夜の1939年8月、ソ連の指導者だったスターリンはヒトラー・ドイツとのあいだに相互不可侵条約を結びました。条約には、ソ連とドイツがポーランドを分割し、バルト三国をソ連の勢力圏に含めることなどを決めた秘密議定書が付属していました。

 ユダヤ人や共産主義者らを弾圧し、周辺諸国への侵略をすすめるドイツと不可侵条約を結んだことは、ソ連をファシズムに断固対決する国家だと信じていた人々に衝撃を与えました。同時に、このソ連外交を、英仏の対独融和政策のもとでソ連の安全を保障するための手段だったとする見解も存在しました。

 しかし、どういう事情があったとしても、他国の領土に勝手に境界線を引き、分割占領を取り決めることは、民族自決権の擁護をかかげていたソ連自身の立場に矛盾する、許されないものでした。

 1939年9月1日、ドイツはポーランドへの侵略を開始、ポーランドの西半分を占領すると、ソ連は、同国領内のソ連系住民の「保護」を理由に東半分を占領しました。その後もソ連は、ドイツとの取り決めにしたがって、バルト三国を自らの勢力圏に組み入れていきました。

 さらにスターリンは、反ファシズム政策を一八〇度転換させ、ドイツを美化したソ連の外交方針を、当時の革命運動の国際組織だったコミンテルンをつうじて各国の共産党に強制しました。このことは、反ファシズム戦線の発展のために全力をあげていたヨーロッパ諸国の共産党を政治的苦境に立たせました。

 条約は1941年、ドイツのソ連侵略によって破られます。ソ連はその後反ファッショ連合で米英などと共同し、連合国は勝利しましたが、スターリンは最後まで対独政策での自らの誤りを反省することはありませんでした。(

 〔2004・9・22(水)〕



もどる
「戻る」ボタンが機能しない場合は、ブラウザの機能をご使用ください。

日本共産党ホームへ「しんぶん赤旗」へ


著作権 : 日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 Mail:info@jcp.or.jp