2004年10月10日(日)「しんぶん赤旗」
「三日連続で十七時間勤務で働きつづけた」「時間どおり(ヘリコプターをイラク出撃の)船に乗せようとして長時間働いていた」―沖縄県宜野湾市で八月十三日に起きた米軍ヘリ墜落事故の調査報告書(十月八日公表)は、事故がイラク派兵の準備を急ぐなかで起きたという生々しい実態を明らかにしています。
| ||
|
報告書は事故の直接の原因を「整備不良」だと結論付ける一方、その背景として「整備部門は一日の労働時間が長すぎ、ヘリの操縦に必要な骨の折れる細かな整備を十分におこなうに足る体制を維持することができなかった」ことをあげています。
報告書によると、米海兵隊では「司令官は(隊員に)二十四時間のうち八時間の睡眠時間を確保せねばならない」とし、その他の活動を考慮して勤務シフトを作成するよう定めています。
ところが、事故機の所属する第二六五中型海兵ヘリ中隊(HMM265)では事故当時、特別な体制が敷かれていました。同隊の航空整備将校である少佐は、事故調査官に次のように証言しています。
「HMM265の整備部門は二〇〇四年八月十日火曜日以来、十二時間労働体制で、八月十四日にエセックスと第三一海兵遠征隊に向けて(ヘリを)飛ばす準備をしていた」
佐世保を母港とする強襲揚陸艦エセックスは八月十四日に米軍基地ホワイトビーチ(沖縄県勝連町)に接岸、その後HMM265が所属する沖縄の第三一海兵遠征隊を乗せてイラクに出撃していきました。HMM265の特別体制は、イラクへの出撃準備のためでした。
十二時間勤務とされながら実態は違いました。
「夜勤が(火曜の)午後三時半にやってきて、水曜の朝七時半まで働いた。水曜の午後二時にもどってきて…木曜の朝七時半まで働いた。木曜の午後二時に仕事にもどり、金曜の午前七時ごろまで。それが事故の日だ」(三日連続十七時間勤務を続け、事故機の整備にあたった伍長)、「夜勤は一日十六時間労働で、日勤は一日十四時間労働だった」(二等軍曹)―事故前日まで長時間労働が押し付けられていたのです。報告書は「航空整備員の就労時間指針をすぐに定めること」を勧告しています。
事故の直接の原因とされた「整備不良」もこうした異常な勤務体制のなかで起きました。
整備にあたっていた軍曹は「格納庫に着くと伍長が後部回転翼の羽根の角度を調整していた。伍長が、睡眠不足で手の震えを止められないので手を貸してくれと頼んできた。私は羽根の角度を調整するのを手伝うと、伍長に家に帰るよう言った」と証言しています。
ヘリの整備をめぐっても現場に混乱がありました。報告書によるとヘリの整備には「全面整備」と「簡易整備」があります。事故機はどちらの整備を受けたのか―。
「伍長によれば、二等軍曹の命令で『修正した簡易整備』をおこなった」
「上等兵は全面整備だと思ったといっている」
「(別の)伍長は全面整備だったと思うと言った」
「二等軍曹は簡易整備として監督していたが、全面整備を完了したといっている」
「整備監督者の一等軍曹は簡易整備をおこなったと思っている」
同じ作業をやりながら、まったく違う認識になっていたことがわかります。報告書は「自分たちがやっているのが簡易整備なのか、全面整備なのかをめぐり、整備場に混乱があった」と認めています。
長時間労働の実態も、現場の混乱もイラク派兵命令を受けて、同部隊が大慌てでヘリコプターの整備をやっていたことを裏づけています。その結果、宜野湾市民の命を脅かす重大な事故が引き起こされたのです。そこには沖縄県民の命よりイラクでの戦争遂行を何よりも最優先にする米軍の姿勢とともに、沖縄の基地が戦争と隣り合わせであることが改めて示されています。