2005年1月22日(土)「しんぶん赤旗」 シベリア出兵と反戦運動は?〈問い〉 シベリア出兵とはどんな出来事だったのですか。日本共産党は創立されたばかりと思いますが、反戦運動はあったのですか?(東京・一読者) 〈答え〉 1917年、ロシアで起きた十月革命をつぶすため、帝国主義諸国が共同して、干渉戦争を起こしました。主戦場はヨーロッパ方面でしたが、シベリアにも軍隊を出してくれないかと、イギリスが日本とアメリカに頼みます。“捕虜になったチェコ軍救出”が理由でした。 野望をふくらませていた日本は、この機会に勢力圏を大きく広げようと、18年8月、1万4千人をウラジオストクに送り、やがて出兵の規模を7万人以上にまで増強。干渉は結局、失敗し、各国は19年中に干渉軍を引き揚げますが(シベリアの米軍は20年4月撤兵)、日本はただ一国になっても、居座り、4年間、占領をつづけました。 日本共産党が生まれた22年7月は、シベリアに大軍を送り込んで居座っていた時期でした。ですから日本共産党は、創立の最初から一切の干渉戦争に反対し、たたかいました。 片山潜は22年5月にシべリアに行き日本人兵士に干渉戦争反対をよびかけ、佐藤三千夫(宮城県登米郡登米町出身、22年にシべリアで死去)など何人もがシベリアでの侵略戦争反対の闘争に参加しました。 国内でも、22年のメーデーには「労農ロシアの承認」がかかげられ、6月には「対露非干渉同志会」がつくられました。 日本共産党は、対露非干渉運動をロシアの大飢饉(ききん)救済運動と結びつけて発展につとめました。22年7月には、山川菊栄、与謝野晶子、中条(宮本)百合子、河崎なつ、深尾須磨子ら幅広い婦人が結集して「ロシア飢饉救済婦人有志会」が結成され、寄付金の募集、絵はがきの販売、音楽会の開催などをおこなって、多額の救援金を労農ロシアに送りました。 内外の糾弾のまえに、日本政府は、シべリアからの全面撤兵(22年10月完了)を余儀なくされました。 (喜) 〔2005・1・22(土)〕 |