2005年2月5日(土)「しんぶん赤旗」

シベリアで反戦運動 佐藤三千夫って?


 〈問い〉 1月22日付本欄でシベリアで反戦運動をした宮城県出身の佐藤三千夫という名を見ました。同じ県なのに知りませんでした。どんな人だったのですか? 天皇元首化が公然と言われる今、戦前、草の根で反戦平和のためにたたかった人々を想起し、語り継ぐことが大切と感じています。(宮城・一読者)

 〈答え〉 1918年8月、日本はシベリアに7万余の軍隊を派遣します。前年に起きたロシア10月革命への帝国主義諸国の干渉に乗じて、大陸への侵略の地歩を一気に拡大するためでした。これにたいして、シベリア現地で「干渉戦争をやめよ」と活動したのが、宮城県登米町出身の佐藤三千夫(1900〜22年)でした。

 三千夫は、佐沼中学(現佐沼高校)4年の時に学校運営に抗議した同盟休校で退学処分をうけ、東北中学(現東北高校)に編入。卒業後、ウラジオストクにわたり材木商に就職。森林を歩くなかで干渉軍とたたかうパルチザン(遊撃隊)を知り、21年には、数人の日本人とともに本格的な反戦活動を始めます。日本共産党が創立される直前の22年6月、一時帰国し東京に滞在、すぐにシベリアに戻り、8月には片山潜が指導に来ていたバイカル湖近くのチタの印刷所に行き、各地で日本軍兵士に反戦ビラを配布します。10月、ようやく日本軍はシベリアの人びとの怒りを背に撤兵。国内外の反戦・平和のたたかいによる歴史的敗北でした。同年12月、このたたかいにすべてをささげた三千夫はハバロフスクで結核のため死去。22歳の若さでした。

 三千夫の死は、創刊されたばかりの23年の日本共産党機関誌『赤旗』4月号で知らされ、31年には、市川正一(日本共産党幹部、虐待に屈せず宮城刑務所で獄死)が4・16事件公判陳述で「ぜひとも記憶しておかなければならぬ一つ」として、身をもって侵略に反対した「同志佐藤の英雄的闘争」をあげました(『日本共産党闘争小史』の「党創立直前の時代」の項)。三千夫の親せきと結婚していた作家徳永直は「日本人サトウ」(50年)を書きました。

 81年5月、平和を願う宮城県内外の人々は登米の町を見下ろす丘に記念碑を建て、毎年記念行事「呑牛忌」をおこなっています。参考文献・歴教協編「草の根の反戦・抵抗の歴史に学ぶ」(平和文化) (遠)

 〔2005・2・5(土)〕



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