2005年2月23日(水)「しんぶん赤旗」

「花へんろ」に出てくる重松鶴之助とは?


 〈問い〉 日曜版連載の「花へんろ」に出てくる重松鶴之助に興味があります。どんな人ですか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 戦前、天皇制下の凶暴な迫害のなかで、主権在民と反戦平和のためにたたかい、命を奪われた日本共産党員は少なくありません。夏目漱石の『坊っちゃん』で知られる四国・旧制松山中学の出身で、小林多喜二と同じ年の洋画家・重松鶴之助も、その一人です。日本が中国侵略を開始した1931年、重松は日本共産党に入党。党関西地方委員会責任者となり、33年秋、姫路連隊の出征兵士へ反戦ビラを配布し逮捕され、5年後に大阪刑務所で自殺、35歳の生涯を終えました。

 大正期、旧制松山中学に「白樺」の影響を受けて、芸術家を志した、重松、伊丹万作(映画監督、俳優・十三の父)、伊藤大輔(映画監督)、中村草田男(俳人)ら、寄せ書き誌『楽天』を発行したグループがありました。深い友情で結ばれた交流はいまも語り継がれています。映画監督山本薩夫の長兄・狷吉は重松の親友で、次兄・勝己(俳優の山本学、圭、亘の父)と薩夫は、重松から弟のようにかわいがられたといいます。

 絵の才能に恵まれた重松は、岸田劉生に心酔、春陽会、国画会展に連続入選するなど天才児ともいわれましたが、中学同級生でグループ共通の友人だった白川晴一(後に日本共産党東京都委員長)の影響も受け、社会変革の運動に入っていきます。

 松山高出身で32年10月に虐殺された岩田義道の家族を案じて走り回っている白川の窮状を知ると、重松は絵をたずさえて、白川とともに松山出身の友人、知人の家を訪ねたといいます。

 「彼はまっしぐらに洋画へ突進して行った。我と我が友情に黒焦げに成りさうな激しい男だった。…やがて重松は捕はれたが、背後関係に就いては遂に一語をも吐かず、…階上の訊問室から石畳に身を投じて自ら命を絶ったと伝へられた」と、伊藤は書いています。重松が逮捕された年、草田男は「軍隊の近付く音や秋風裡」と詠みました。

 〈参考〉「青春の系譜〜重松鶴之助の生涯」(季刊『えひめ』第3号・76年5月から3回連載・未完、『風の碑〜白川晴一とその友人たち』光陽出版社、敷村寛治著(喜)

 〔2005・2・23(水)〕



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