2005年3月23日(水)「しんぶん赤旗」

再審が決まった横浜事件とは?


 〈問い〉 再審が決まった横浜事件というのはどんな事件だったのですか?(北海道・一読者)

 〈答え〉 戦前、国民を戦争に動員するために、天皇制政府は、治安維持法をつくり、最初に、反戦運動の先頭に立った日本共産党を徹底して弾圧しました。ついで、反共主義の名の下に戦争批判のいっさいの言動を封じ込めていきました。とくに、国民が真実を知ることを恐れ、進歩的な新聞、雑誌を発禁としただけでなく一般紙誌もきびしく検閲しました。

 戦争末期、こうした言論、出版にたいする弾圧の頂点ともいえるのが横浜事件です。

 終戦の3年前の1942年、雑誌『改造』8、9月号に載った細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」を陸軍報道部長が「共産主義宣伝」と問題にしたことで、同誌は発売禁止処分となり、細川は治安維持法違反で逮捕されます。これを発端として、同氏が富山県泊町に友人を招いた慰安旅行を「共産党再建準備会の謀議」と、でっち上げ(泊事件)、参加した7人全員を逮捕しました。その後、神奈川県特高課は、被検挙者の友人、そのまた友人と検挙を広げ、世界経済調査会、改造社、中央公論社、日本評論社、岩波書店といった出版関係者など検挙者は70余人に及びました。

 架空の筋書きどおりの「自白」をえるため、特高警察は横浜市内の各警察署で、ほとんど全員にせい惨な拷問を加えました。横浜事件とよばれるのは、このためです。

 拷問によって、中央公論社の和田喜太郎と同僚の浅石晴世、世界経済調査会の高橋善雄、東京航空計器の工場に勤務していた田中政雄の4人が獄死。満鉄調査部の西尾忠四郎は、獄中で危篤状態に陥ったため、獄中死を恐れた警察の責任回避によって保釈となりますが、その後一カ月たらずで、敗戦の日を目前にして死亡しました。

 44年8月の「特高月報」は、「本事件に依(よ)り…中央公論社、改造社内の永年に亘(わた)る不(ふ)逞(てい)活動を究明剔決(てっけつ)して遂に之を廃業に立至らしめ、戦時下国民の思想指導上偉大なる貢献を為し得たること、は特筆すべき事項なり」と自慢しています。(喜)

 〔2005・3・23(水)〕


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