2005年3月26日(土)「しんぶん赤旗」
戦死した沢村投手とはどんな人?
〈問い〉 沢村投手はいつ戦場に行き、死んだのですか。ほかにプロ野球選手で戦死者はいたのですか?(静岡県・一読者)
〈答え〉 戦前の不世出の大投手、巨人の沢村栄治は、2回の応召をはさんで3回も軍隊に取られた揚げ句の戦死でした。
沢村は全盛期の最中、1938年(昭和13年)1月に三重県の歩兵第33連隊に入隊し、中国東北部を転戦している9月の戦闘で、左手貫通の銃創を負いました。
40年に除隊し、マウンドに立ちましたが、軍隊生活で出征前の快速球は見る影もありませんでした。41年10月、すでに結婚していた沢村の下に無情にも召集令状が来ました。フィリピン・ミンダナオ島など南方戦線を転戦し、43年1月に無事本土に生還しました。再びプレー復帰を目指しましたが、肩の衰えはどうしようもありませんでした。登板すれば打ち込まれ、とうとう10月のタイガーズ戦に代打で登場したのを最後に2度とグラウンドに上がることはありませんでした。
無情にも沢村は3度目の召集を受け、43年11月にフィリピンにむけた輸送船のなかで魚雷を受けて戦死しました。
沢村賞として今も語り継がれている大投手は、27歳の生涯で東シナ海に散りました。
そのほかに、最後のキャッチボールをして特攻隊で空に散った名古屋の石丸進一投手、フィリピンのカラングンで戦死した阪神の景浦将選手、グアム島で戦死した名古屋の村松幸雄投手など、今わかっているだけで67人の選手たちがなくなりました。
現在、東京ドームの歓声と球音がこだまするドームの南東、大通りに面して一段高い植え込みの中に、この戦没したプロ野球選手の名前が全員刻まれた「鎮魂の碑」があります。
戦後60年を迎えた今年、苦い轍(てつ)をくりかえさないためにも、あらためて戦没選手に思いをはせることは大事なことと考えます。(鳥)
〔2005・3・26(土)〕