2005年3月31日(木)「しんぶん赤旗」
戦前、エスペラント運動が弾圧された理由は?
〈問い〉 戦前、エスペラント運動が弾圧されたのはなぜですか?(埼玉・一読者)
〈答え〉 エスペラント(以下エスと略)とは1887年にポーランドの眼科医・ザメンホフが考案した国際補助語です。エスとは「希望する者」を意味し、言葉によって民族対立をなくしていく“人類人主義”を内包する運動です。
日本では1906年、エス協会が設立(19年、エス学会に改称)され、大正デモクラシーの中、知識人や学生に急速に浸透し、23年には会員数2440人に増えます。やがて、エス運動内に、無産者運動と連帯し戦争に反対してたたかう人と、“言語運動”だけに限ろうという人との間に分化が起こります。
侵略戦争に突き進む天皇制政府は、前者を、治安維持法で弾圧するとともに、後者には戦争協力を強い、37年には一部のエスペランチストによってエス報国同盟も結成されました。
前者に立つ人びとは、31年1月、東京・上落合(新宿区)の村山知義のアトリエで「日本プロレタリア・エスペラント同盟(ポエウ)」創立大会を開きます。参加者は約30人。秋田雨雀を委員長に選び「エスペラントで外国の兄弟と手を握れ」などのスローガンを決め、翌年にはコップ(日本プロレタリア文化連盟)に加盟し、機関誌『カマラード』(最盛時2500部)をだして活動します。(ちなみに、コップ、ナップ=全日本無産者芸術団体協議会=はエス語の頭文字を組み合わせた略称)
しかし、31年9月、「満州事変」の発端となる柳条湖事件を起こした天皇制政府は、日本共産党員はもちろん自由主義者も容赦なく弾圧しました。ポエウ関係者も次々に逮捕され、34年秋にポエウは壊滅、その後も弾圧は広げられ、特高警察の拷問による病状悪化で、釈放後、宝木寛、佐藤時郎、中塚吉次、斉藤秀一らが命を落としました。
戦争に反対したエスペランチストにはこのほか、台湾で「飢えたるロシアを救え」のカンパニアをし23歳の若さで散った山口小静や、佐々城松栄とクララ会、学生エス組織「アクボメローメ」、『種蒔く人』(第2次)の佐々木孝丸、中国から日本兵むけの反戦放送をした長谷川テル(1912〜47年)などが知られています。(亮)
〈参考〉『闘うエスペランティストの軌跡』(三宅栄治著、リベーロイ双書)、『反体制エスペラント運動史』(大島義夫・宮本正男共著、三省堂)
〔2005・3・31(木)〕