2005年4月14日(木)「しんぶん赤旗」
日本占領下、ベトナムで200万人が餓死
〈問い〉 日本占領下のベトナムで200万人が餓死したというのは本当ですか?(三重・一読者)
〈答え〉 60年前のアジア太平洋戦争は、アジアで2000万人以上の犠牲者をだしました。日本がおこなった各国への侵略と加害の歴史を私たちは忘れてはなりません。日本占領下のベトナムで起きた大量餓死もその一つです。1944〜45年、中部クアンチ省から北部にかけて、当時の人口の10分の1にあたる推定200万人が餓死したとされています。
92〜95年に日本の学者と共同で餓死の調査をした歴史学者のバン・タオ教授は「調査で、200万人という数字が誇張でないことがよりはっきりした。45年当時、北部ハイズオン省で教師をしていたが、教え子の約半数が餓死した」と本紙特派員に答えています。
日本は、インドシナを支配していたフランス植民地当局に圧力をかけ、40年9月22日に結んだ協定で、日本軍のベトナム北部駐留を認めさせ、翌日から駐留を強行(仏印進駐)。アジア太平洋戦争開始の翌日、41年12月9日に結ばれた日本・仏印協定で日本支配はより強化され、フランス植民地機構は日本支配の下請けと化しました。45年3月9日には、仏植民地機構を武力で解体、単独支配を敷きました(仏印処理)。こうした状況で起きたのが、大量餓死という同国史上空前絶後の惨事でした。
原因として、バン・タオ教授は、(1)日本がフランス植民地機構を下請けにして、食料を安い価格で強制的に買い付けた、(2)ジュートなど戦略物資を得るために稲作面積を減らした、(3)北部で天候不順による凶作が起きた、(4)豊作だった南部から米が北部に運ばれなかった―という4点をあげています。
しかし、問題は、何が致命的原因になったかということです。同教授は、凶作が不可避だったとしても他の原因がなければ、飢餓はずっと軽微ですんだはずだと指摘しています。
01年11月、ホーチミン市にある戦争証跡博物館などの主催で、ベトナムに対する戦争犯罪に関するシンポジウムが開かれましたが、北部の飢餓の最中にも、仏植民地当局がサイゴンに35万トン、チョロンに20万トンのもみを、日本軍もサイゴンに20万トンの米を備蓄していたと報告されました。(俊)
〔2005・4・14(木)〕