2005年4月21日(木)「しんぶん赤旗」
朝鮮で起きた「三・一独立運動」とは?
〈問い〉 戦前、朝鮮で起きた「三・一独立運動」とは、どんなことですか?(長野・一読者)
〈答え〉 日本の朝鮮植民地化は1875年の開国要求から1910年の韓国併合にいたるまで、すべての過程が、武力による脅かしと行使によってすすめられました。土地、鉱業、漁業などを問答無用に略奪する侵略に、朝鮮では「義兵闘争」と呼ばれる抵抗闘争が不断に展開されました。日本は軍隊でこれを鎮圧し、06〜11年の間だけで「約1万8千名の義兵を殺害」(朴慶植著『朝鮮三・一独立運動』)しています。
こうした朝鮮民衆の抵抗の頂点にあるのが、19年3月1日に始まった「三・一独立運動」です。南・北朝鮮では今日でもこの日を記念日としています。
第1次世界大戦後、民族運動や革命運動が世界的な高まりを示すなかで、19年2月8日、在日留学生が東京で独立宣言書を発表。ひそかに印刷された独立宣言書が日本の警察の目をくぐって宗教者や学生たちによって全国に運ばれました。
3月1日、運動は、ソウル、平壌、開城などの主要都市で始められました。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に、太極旗(大韓帝国時代の国旗で現在の韓国国旗)をふり、「独立万歳」を叫んで行進、たちまち数万の群衆デモとなりました。3月中旬には、朝鮮全土が反日運動のるつぼとなりました。なかでも前年に終了した土地調査事業によって日本人地主や親日的な地主が支配するようになった農村部で激しくたたかわれました。
天皇制の軍隊は、これに容しゃなく銃火をあびせ、堤岩里事件(19年4月15日、運動参加者を礼拝堂内に閉じ込めて射殺、建物もろとも焼き払い、29人を虐殺した)などをふくめ、8千人近い人を殺し、たくさんの人びとを投獄しました。
この運動の影響は大きく、同年のインドの非暴力運動(4月)や中国の五・四運動(5月)の先がけとなりました。日本では、独立運動はくわしくは知らされず、朝鮮人に共感を寄せたのは、白樺派の柳宗悦ら少数者にとどまりました。日本共産党は、この3年後に創立されますが、結党直後から「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」のスローガンをかかげ、日本の政党ではただ一つ、朝鮮人民の解放闘争を支持しました。(喜)
〔2005・4・21(木)〕