2005年6月11日(土)「しんぶん赤旗」
首相参拝と“靖国”派の要求
戦争観に一線を画しながら、なぜ参拝に固執するのか
六月二日の予算委員会、日本共産党の志位和夫委員長との問答のなかで、小泉首相は、いくつかの重要な言明をしました。
一つは、靖国神社が、「日本の戦争は正しかった」とする戦争観にたっていることを知っているか、という質問にたいし、「靖国神社がそのような考えをもち、そのような発言をされていることは、承知している」と答えた上で、「靖国神社には靖国神社の考えがあるだろうが、これは政府と同じものではない」、自分が参拝するからといって、「靖国神社の考えを支持しているんだと、とらないでいただきたい」と述べたことです。
また、靖国神社が、太平洋戦争の開戦の責任をアメリカに押しつける立場に立っていることについての見解を問われたときにも、「戦争をした責任については、日本は戦争を起こしたわけですから、戦争責任は日本にある」と答え、靖国神社の戦争観とは一線を画して日本の戦争責任を認める立場を表明しました。
それなら、なぜ、戦争の正当化に自分の最大の使命があると宣言している靖国神社への参拝に固執するのか? 志位さんと小泉首相との問答を聞きながら、多くの人びとが、この疑問をいっそう深くしたのではなかったでしょうか。
そしてまた、この疑問をもつ多くの人びとには、「私は、戦争の犠牲者への追悼の気持ちで参拝しているだけだ」と、いまや決まり文句のようになった首相の弁明の言葉が、きわめて弱々しく、もっとはっきりいえば、きわめて虚(うつ)ろに響いたのではないでしょうか。
この問題をめぐる状況は、大きく変動しつつあります。世論調査でも、首相の参拝に反対する声が多数を占めるようになり、自民党の有力者たちからも、参拝の中止や靖国問題の再検討を求める意見が、次々と表明されています。
それにもかかわらず、首相は、靖国参拝の既定方針は変えず、「適切に判断する」という対外公約も、参拝の是非の判断は含まず、参拝実行の日時を「適切に判断」するというだけのことに、切り替えてすまそうとしているようです。
こんなことでは、日本外交が現在のゆきづまりから抜け出せないことは、あまりにも明白なのに、小泉首相は、なぜ靖国参拝に固執するのでしょうか?
「英霊にこたえる会」が製作したドキュメント映画
この疑問を解くカギの一つが、靖国神社の現場にありました。
例の「遊就館」ですが、二階の展示場の東隣に「映像ホール」が設けられていて、“靖国史観”を映像化したドキュメント映画を、毎日、上映しています。前に紹介した戦争史ドキュメント「私たちは忘れない」(製作・「日本会議」「英霊にこたえる会」、後援・靖国神社)は、その一つでしたが、同じようなドキュメント映画に、「英霊にこたえる会」の企画・製作になる「君にめぐりあいたい」があります。
「英霊にこたえる会」とは、“靖国史観”を信奉する“靖国”派の中心団体の一つで、その事務所は、「遊就館」のなかにおかれています。
この映画の前半は、日本の戦争史を“靖国”流に描きだすことにあてられています。この主題は、「私たちは忘れない」と共通ですが、そのなかに、前の作品にはなかった独自の基調が強く流れているのが、大きな特徴となっています。
それは、首相の靖国参拝を求める政治的な呼びかけです。
映画は、現代日本の平和な情景の映像から始まります。それが太平洋を思わせる海面の光景に変わり、次のナレーションが流れます。
「五十数年前、この国は、一つの戦争をしていました。
日本という国が生きるか死ぬか。存亡をかけた戦いをしていました。大東亜戦争です。日本人が全力を出しつくして戦った戦争です」。
“首相の靖国参拝は なぜ中断したのか”
続いて、画面は、一九四一年十二月八日早朝、アメリカ海軍の拠点基地・真珠湾への奇襲攻撃の成功を発表する大本営の報道官の姿に転じ、日本が戦場とした「大東亜共栄圏」の広大さを地図で示したあと、今度は扇情的な調子をこめて、再びナレーションが始まります。
「戦える者はすべて、日本という国のために、愛する家族、恋人を守るために、戦場におもむいたのです。
しかし、今日、英霊の御心は国家に、同胞に聞きとどけられていないばかりか、日本は侵略戦争をした、日本軍は悪いことをしたという、その罪の一端まで背負わされているのです。
日本政府を代表する内閣総理大臣の靖国神社参拝は、中断されています。なぜなのでしょうか。
大東亜戦争を批判する人がいるからですか。日本は侵略戦争をしたと考えているからですか。日本軍は残虐な行為をしたと信じているからですか。英霊につくす感謝の心はないのですか」。
こうして、首相の靖国参拝が中断している事態が、「英霊」の名において告発されます。ここに、このドキュメントの特別の主題があったのです。
映画には製作年次が明記されていませんが、「会」の文書によると、この映画が製作されたのは、二〇〇〇年の初めごろでした。
中曽根首相が一九八五年を最後に公式参拝をとりやめて以後、“靖国”派は、首相参拝の再開を要求し続けてきましたが、その訴えの具体化として、映画の製作を計画し、二〇〇〇年のこの時期にそれを完成させたのです。
日本の戦争史と結びつけて靖国参拝を要求
訴えのあと、映画は、あの戦争は「本当はどんな戦争だったか」「あの時の若者がどんな気持ちで日本を守ろうとしたのか」、それを「あなたがたに伝えたい」といって、日清・日露から「大東亜戦争」にいたる日本の戦争の歴史を、“靖国”流にふりかえります。戦争史の解説者は、大本営陸軍部参謀だった人物。国民が戦争中、軍部から聞かされた戦争宣伝そのままの解説とともに、戦争の画像が続きます。
日本の戦争目的として、「自存自衛」がしきりに連発されますが、「大東亜戦争」の緒戦の勝利は、米軍の反攻によって戦況は大逆転します。映画は、「玉砕」した日本軍の累々とした遺体の情景を執拗(しつよう)に映しだしますが、それは、次のナレーションを際立たせるためでしょう。
「日本軍は……降参することなく、最後まで戦いました。それは何のためですか。日本のためです。……家族のため、愛する人のため、少しでもアメリカ軍の日本本土上陸を遅らせることができるならと、しかばねを築いていったのです。
この日本軍将兵に、あなたがたは悪いことをしたと言えますか。……
日本はいま独立国です。その誇りと自負があるならば、日本政府は大東亜戦争などで亡くなられた方々に、心からの哀悼を捧(ささ)げるべきではないでしょうか」。
この、戦没者への追悼を強引に戦争の正当化に結びつけたナレーションのあと、ふたたび、首相参拝の要求が、「英霊」の名によって持ち出されます。
「内閣総理大臣ならびに全閣僚、三権の長、そして天皇陛下がご参拝になられて、英霊の御霊(みたま)は鎮まり、全国のご遺族のお気持ちは安まるのです」。
この要求に正面からこたえた最初の首相
小泉首相が、自民党の総裁選挙に勝利して、首相になったのは、この映画がつくられた翌年、二〇〇一年四月のことでした。
そして、小泉首相は、当選した最初の年から、靖国神社への参拝を実行し、それをすでに四回も繰り返してきました。
中曽根首相以後、日本の首相は、竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森と、何人も交代してきましたが、靖国参拝の問題でこういう態度をとった首相は一人もいません。任期中に一回だけ参拝した首相は複数いるようですが、誰も、それを繰り返すことはしませんでした。
まさに、小泉首相は、靖国神社への連続参拝を実行することで、「英霊にこたえる会」など“靖国”派の要求を正面から受け入れた最初の首相となったのです。
“靖国”派の首相参拝の要求が、日本の戦争を正当化するという大目的から出た要求であることは、すでに詳しく見てきました。このような要求には、なんの道理もありません。
しかも、“靖国”派は、首相自身も内外に明言した「植民地支配と侵略」への反省という日本政府の立場を、「嘘(うそ)と誤り」だといって、最大限の悪口雑言をならべて攻撃しているのです(本紙六月七日付「ここまで来たか“靖国史観”」)。
この“靖国”派への義理立てが、首相が靖国参拝に固執する理由の一つになっているのだとしたら、これは、私的な党略的利益を――いや「党略」というよりも、「派略」といった方が正確でしょう、私的な派略的利益を、日本の国益の上におく逆立ち政治の典型ではないでしょうか。
首相は、そのような道理に反するしがらみはきっぱりと断ち切って、未来に開かれた日本外交の進路をこそ真剣に探究すべきです。
“靖国参拝を 天皇も参加する 国家的大行事に”
首相参拝をもって戦争正当化の手段にするという“靖国”派の要求は、さらに進んで、靖国参拝を一大国家的行事にすることで、“靖国史観”を日本の国論に格上げしようという、途方もない計画と結びついています。
さきほどの映画は、紹介した最後の部分で、首相の靖国参拝を、まず政府の閣僚の全員と三権の長、つまり衆参両院議長と最高裁長官を勢ぞろいさせる行事に発展させ、さらには、天皇もこれに加わらせようという、目標を提起していました。こうして、靖国参拝が、天皇を含む、日本の国家機関のすべての代表者が参加する国家的行事になれば、そのことを通じて、「日本の戦争は正しかった」という自分たちの戦争観を、公認の日本の国論にすることができる――彼らがこの計画にこめた思惑は見え見えです。
歴史を逆転させようとする“靖国”派のこの野望は、日本の未来のため、アジアと世界の平和のため、絶対に許すわけにはゆきません。
外交的困難の打開のため、日本の未来のため、かさねて決断を求める
冒頭に見たように、小泉首相は、六月二日の衆院予算委員会での答弁で、自分は、戦争を正当化する靖国神社の立場にくみするものではない、という立場を明らかにしました。
これが、小泉首相のまじめな政治的立場であるのならば、靖国神社の異常な戦争観が明らかになった以上、また、首相の靖国参拝を利用してその戦争観をいっそうあからさまに国民に押しつけようとする“靖国”派の政治的な思惑が明示されている以上、靖国参拝をきっぱりとやめることが、首相としてとるべき政治的決断ではないでしょうか。
私たちは、かさねて、小泉首相にそのことを強く求めるものです。
その決断は、過去の戦争や植民地支配にたいする日本の反省に誠実な裏付けがあることを世界に示し、日本が現在おちいっている外交的ゆきづまりを打開する上でも、必ずや大きな力を発揮するでしょうし、そのことは日本の未来に必ず重要な影響をおよぼすでしょう。
(北条 徹)