2005年6月11日(土)「しんぶん赤旗」

中国侵略に反対し殺された岩田義道とは?


 〈問い〉 戦前、岩田義道という愛知県出身の日本共産党員が戦争に反対して殺されたと知りました。どんな人だったのですか?(名古屋・一読者)

 〈答え〉 岩田義道は、戦前の日本共産党中央委員の一人です。1928年2月創刊の「赤旗」の編集・宣伝に携わり、32年4月に活版化、部数を800部から7000部へと戦前最高へと引き上げました。当時は天皇が国の権限すべてを握っている社会で、戦争や天皇絶対に異を唱えたり、「赤旗」を持っていたりするだけで、特別高等警察(特高)に逮捕されました。

 岩田は28年3月15日の日本共産党と支持者への大弾圧(3・15事件)の際には逮捕をのがれ、途中一時期の投獄をはさみ、31年1月から地下活動に移ります。同年9月18日、中国東北部へ侵略が開始される(「満州事変」)と、岩田らを指導部とする党は翌19日、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」の檄(げき)を発表し、侵略反対のたたかいをすすめました。この最中に、党内に潜んでいたスパイの手引きによって岩田は特高に捕らえられ、3日後の32年11月3日、虐殺されます。遺体を見た友人の鈴木安蔵(静岡大名誉教授)は「たくましい彼の顔は紫色に腫(は)れ上がり、鉄の鎖でしめられた両足、手首のすさまじい残虐な拷問の跡とともに、われわれの眼を蔽(おお)わしめるのみであった」と書いています。

 岩田は1898年、現在の愛知県一宮市に生まれ、小学校を出てから東京の紙問屋や、郷里の小学校の教員として働いたのち、松山高校、京都大学へ進学。働く中で貧しい人々の苦しみに直面し、どうしたら貧しい人を救えるか考えます。模索の中で、経済学者の山田盛太郎にマルクス主義を勧められた岩田は、京大時代、『資本論』を原文で3回も通読するなど、猛烈な学習でマルクス主義への確信を深めていきました。1925年には「マルクスの弁証法についての一考察」という論文を書き、『日本資本主義発達史講座』の編集にも党指導部としてかかわり重要な役割を果たします。

 地下活動に入れば「二度と会うことはできなくなるだろう」と考えた岩田は、河上肇に金を借り、船頭だった両親に舟を贈っています。死を覚悟した生活にも、揺るぎない確信と優しさをもち続けた人でした。(佐)

 〔2005・6・11(土)〕。


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