2005年7月23日(土)「しんぶん赤旗」
太平洋戦争でフィリピンはどうだった?
〈問い〉 太平洋戦争で日本軍がフィリピンを占領し犠牲者も多かったと聞きます。どんなことがあったのですか?(東京・一読者)
〈答え〉 1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾攻撃の直後に、米国統治下の保護領フィリピンで上陸作戦を展開し、42年1月2日、「誰一人歓声をあげる者もおらず拍手をする者もいなかった」(『フィリピンの歴史』グレゴリオ・F・サイデ 松橋達良訳)なかで首都マニラに入城しました。
日本軍は、戒厳令を布告。フィリピン人による行政委員会を設置し、大政翼賛的な組織カリバピをつくらせ、「第二共和国独立宣言」(43年10月)をさせました。しかし、「実質的な軍政はこの後も続き、『独立』は形骸化した」(『フィリピンの事典』)ばかりか、台風の影響もあり、「大規模な飢餓」が起こりました。(『マニラ、私のマニラ』(ニック・ヨアキン)
学校では日本語の学習が義務付けられ、抗日のうわさを広めたというだけでも「犯罪」とされ死刑が科せられました。
マニラ・イントラムロスのサンチャゴとりででは、多くのフィリピン人が「水面下の地下ろうに閉じこめられ、満潮時に水死させられ」ました。(『地球の歩き方 フィリピン』)
42年4月9日、マニラ湾に突き出たバターン半島では、米軍が降伏。フィリピン兵7万人、民間人4万人、米兵1万人が、112キロの「死の行進」を強いられ、米国の公表でもフィリピン人1万6千人、米人1200人が死亡しました。
米軍は44年10月、レイテ島に上陸し、45年2月にはマニラへ。敗走する日本兵は民家や政府の建物、大学、教会に火を放ち、女性に乱暴し、多数の市民を虐殺しました。45年8月15日、日本が無条件降伏。フィリピンは解放され、米国の統治下に戻った後、46年7月に独立しました。
51年9月、サンフランシスコ講和会議でフィリピンの外相は、日本軍が100万人のフィリピン人を殺したと告発。フィリピン戦の日本兵の「犠牲者数は50数万。これは満州事変以来の中国大陸での犠牲者数を上まわる」(『ルソン戦―死の谷』(阿利莫二)とされています。(崎)
〔2005・7・23(土)〕