2005年8月17日(水)「しんぶん赤旗」
命をかけて反戦の信念を貫いた田中サガヨとは?
〈問い〉 先日、伊藤千代子のことが紹介されていましたが、千代子と同じように、侵略戦争に反対してたたかい、24歳で亡くなった田中サガヨ、飯島喜美、高島満兎のこともご紹介ください。(京都・一読者)
〈答え〉 「お姉さんお久しいございます。…今又私はとらわれの身となっております」という書き出しで、留置場でチリ紙に走り書きした手紙を残した田中サガヨは、70年前の1935年、24歳10カ月の若さで、天皇制権力によって命を奪われた日本共産党員の女性です。
サガヨは山口県下関市豊田で1910年、造り酒屋の三女に生まれ、高等女学校を卒業後、タイプの技術を習得。29年、働きながら勉強をすることをめざし、兄・尭平(ぎょうへい、49年の衆院選で山口2区から日本共産党公認で当選)をたよって上京。東大社研にいた兄から科学的社会主義の理論を学びます。やがて検挙された兄の救援活動をするなかで、共産党とともに歩む決意を固めます。
兄が「一命を捨てる覚悟があるのか」というと、「もちろんよ、私も随分考えてのことよ。…一命を棄てるの、覚悟の、そんな神がかりの言葉はどうかと思うの。私の聞きたいのは、私のようなものでも、一生懸命やれば何かできるかしら」といって、32年に入党しました。前年の31年秋には、天皇制政府が中国東北部(旧「満州」)への侵略を開始。反戦平和のたたかいをすすめる共産党にたいする攻撃を集中した時期でした。サガヨは、「赤旗」中央配布局の仕事につきました。「赤旗」は32年4月から活版印刷になり発行部数は7千部に。「日本帝国主義の満洲強奪の駆引、『満洲国承認』に反対せよ!」(32年9月15日付)、など、侵略戦争反対を訴えますが、33年2月には小林多喜二が虐殺され、宮本顕治氏が逮捕された翌日の33年12月27日、サガヨも銀座4丁目で逮捕され、拷問を受け、重い結核にかかります。保釈は認められず、病状が悪化し、35年4月、市ケ谷刑務所を出されますが、20日後の5月14日に生涯を閉じました。
チリ紙には「信念をまっとうする上においては、如何なるいばらの道であろうと、よしや死の道であろう(と)覚悟の前です。お姉さん。私は決して悪い事をしたのではありません。お願いですから気をおとさないで下さい」と書かれていました。
現憲法にはサガヨらが命をかけた反戦平和と主権在民の主張は刻みこまれました。(喜)
参考 『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、新日本出版社)
(飯島、高島については続報)
〔2005・8・17(水)〕