2005年8月18日(木)「しんぶん赤旗」

コンパクトに「闘争・死」と刻み 獄死した飯島喜美とは?


 〈問い〉 反戦平和のたたかいで、若くして死んだ飯島喜美とはどんな女性ですか?(京都・一読者)

 〈答え〉 飯島喜美は、コンパクトに「闘争・死」と刻み、野蛮な拷問に屈せず、信念を誇り高くつらぬき、24歳で獄死した日本共産党員です。

 喜美は、1911年、千葉県旭市の、ちょうちん職人の家に13人きょうだいの長女として生まれ、小学卒業後、すぐに女中奉公に出て、15歳で、『女工哀史』の舞台となった東京モスリン紡織亀戸工場に入りました。 工場は2交代12時間の過酷な労働と、低賃金、強制的な天引き貯金、監獄のような寄宿舎では読む本も制限されて手紙も開封されていました。

 喜美は、工場でひそかに開かれていた、科学的社会主義の研究会に参加。28年の賃上げ要求ストライキでは、16歳で500人の女工たちのサブリーダーを務め、会社側に要求を認めさせました。

 29年の4・16弾圧(天皇制政府による日本共産党と支持者へのいっせい検挙)で喜美も亀戸署に検束されますが、それに屈せず、日本共産青年同盟(共青)に加盟、5月に日本共産党に入党。翌30年には、労働組合の国際組織プロフィンテルン第5回大会に、日本の女性として初めて参加しています。

 帰国した31年10月は、中国東北部への侵略開始(31年9月、いわゆる「満州事変」)の直後でした。喜美は、重大な情勢のなか反戦運動を広げるために、日本共産党中央婦人部で、女性労働者を組織する活動にとりくみました。「赤旗」32年7月15日付の「戦争が拡がる 婦人は起(た)って反対せねばならぬ」というよびかけなどに喜美の活動の様子がうかがえます。

 しかし、スパイの手引きにより33年5月逮捕されます。獄中で結核となり、まともな治療もされないなかで、信念を貫きましたが、35年12月18日、24歳の誕生日の翌日、栃木刑務所で獄死しました。

 遺品の真ちゅう製のコンパクトは父親の倉吉さんが保存し、後に党中央委員会に寄贈されました。反戦平和と社会進歩のために命をささげた飯島ら青年たちのたたかいは、日本共産党の誇りです。(喜)

 参考 『新版・不屈の青春』(山岸一章著、新日本出版社)、『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、同)

〔2005・8・18(木)〕


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