2005年8月20日(土)「しんぶん赤旗」
反戦平和の信念を貫いた共産党員、高島満兎とは?
〈問い〉 反戦平和のたたかいで、若くして死んだ高島満兎とはどんな女性ですか?(京都・一読者)
〈答〉 戦前、日本が中国への侵略戦争を始めたころ、反戦運動をおこなったことで、残虐さではナチスのゲシュタポと並び称せられる特別高等警察(特高)に捕まり野蛮な拷問をうけ、少なくない人々が命を奪われました。特高におそわれ、2階から飛び下りて下半身不随となり、1934年7月13日、24歳9カ月の生涯を閉じた高島満兎もそんな一人です。
満兎は1909年10月、福岡県久留米市の造り酒屋の2女に生まれ、快活な少女として育ち、久留米高女(現明善高校)に在学中は陸上の選手でした。26年、日本女子大学に入学、クラスでも寮でも「まとしゃん」とよばれ慕われました。
満兎の生き方に影響を与えたのは長兄・日郎(じつろう)でした。日郎は、旧制中学を卒業後、油絵を描いていましたが、労働農民党の活動に参加。27年夏、検挙されると、留置場の壁に「労働者、農民を苦しめる天皇制を打倒せよ!」と書き、不敬罪で4年間、鹿児島刑務所に。仮出獄した翌32年3月、24歳で急逝します。
この兄との交流を通じて、満兎は29年ころから学生社会科学連合会(学連)の目白班に参加。卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟します。(満兎に共青加盟をよびかけたと思われる早大共青班の加藤為作も豊多摩刑務所で32年、24歳で獄死しています)
30年4月、大学を卒業した満兎は「無産青年」編集局で組織部の仕事につき各地に配布網を広げることに没頭しました。千葉医大の共青班は、満兎の指導で、75人ほどの「無産青年」読者会を組織し、国鉄千葉機関区に「帝国主義戦争反対!」のビラをまいたり、共青のポスターをはったりしています。中国東北部への侵略開始というきびしい情勢下でのたたかいで、満兎は31年暮れから32年にかけて結核で入院しますが、途中で病院をぬけだし、活動。この年に日本共産党に入党し、共青中央の農民対策部長となり、長野などで共青再建のために奔走しました。しかし、33年3月、東京・新宿の借家で寝ていたときに特高の襲撃をうけ、骨盤を複雑骨折。ギプスに包まれ、下半身を動かすこともできないまま翌年、亡くなりました。新しい時代の夜明けを信じながら。(喜)
参考 『新版・革命と青春』(山岸一章著、新日本出版社)、『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、同)
〔2005・8・20(土)〕