2005年8月22日(月)「しんぶん赤旗」

総選挙全国決起集会での報告

政治のゆきづまりをどう打開するか  

中央委員会議長 不破 哲三


 十九日に開かれた「総選挙全国決起集会」で、不破哲三議長がおこなった報告(大要)は次の通りです。

 中央会場のみなさん、全国各地の会場のみなさん、こんばんは。

一、戦後の政治史のなかで、政治の現状を見る

 総選挙での論戦の基本的な方向はいま志位さんが報告しました。私は、この政治戦の内容を別の角度から、いまの日本の情勢と政党の配置がどんなふうになっているのか、また、戦後六十年の歴史の中で、私たちはいまどういうところまで来ているのか、国民の声にこたえる新しい政治を起こすには何が必要なのか、こういう角度から考えてみたいと思います。

 小泉・自民党は「改革を止めるな」をこんどの選挙のキャッチフレーズに選びました。いかにも、小泉政治は日本の大改革に取り組んでいて、目の前には洋々たる前途が開かれている、抵抗勢力の妨害さえ突破したらすばらしいことになる、と言わんばかりのキャッチフレーズですが、国民の実感はそれとはあまりにも違うものがあります。外交でも、マスコミでさえ、「ゆきづまり」という言葉をくりかえし使います。内政も同じで、実際に八方ふさがりのゆきづまり感こそが、いまの日本の政治の実態であり、到達している地点ではないでしょうか。

 今年は、戦後六十年であると同時に、自民党という政党ができてちょうど五十年にあたる年です。その自民党政治の危機とゆきづまりが最も深刻な段階を迎えているのが、いまだと思います。

 四年前を思い出してください。森内閣の政治の最終段階でした。四年前もちょうど都議選の年でした。都議選に出る自民党の候補者たちは、“こんどは自民党から出たくない”、“無所属で出たい”、それが圧倒的な声になったほど、自民党政治と国民との間にはものすごい溝ができており、危機といわれました。そのときに自民党政治の“救世主”、救い主のような顔をして現れたのが、「自民党を壊す」の言葉で人気を得た小泉さんだったんです。

 しかし、その小泉政権が、四年間に自民党政治の危機をいっそう深刻なものにし、内政も外交も八方ふさがりのゆきづまり状態に落としこんだ。まさに、自民党政治の総決算的な危機です。そのなかで、“改革を止めるな”、“私に任せておけ”と言っているのです。あのキャッチフレーズに惑わされないで、自民党政治がこういう段階にまで来たなかでの政党対決だということを、まずしっかりと見据えてほしいと思います。

世界でも異常な自民党政治の特質

 では、自民党政治とは何でしょうか。

 日本は資本主義の国です。世界には資本主義の国が大多数ですが、その国ぐにのなかでも、自民党政治は、政権党の政治として、たいへん異常な特質を持ってきました。私は七〇年代から国会に参加してきたのですが、当時、自民党が共産党にたいする猛烈なあくどい攻撃を仕掛けてきたときに、私たちはかなり強い言葉で自民党政治の特徴づけをおこないました。第一に「戦犯政治」、第二に「売国政治」、第三に「金権政治」、あわせて「三悪政治」と呼んだこともあります。現在は、今風に、もう少し上品な言葉で言っていますが(笑い)、言い方は変わっても、三つの特質の中身はいまも変わらないんですね。

 第一に、過去の侵略戦争の“名誉回復”と言いましょうか、日本がやった戦争の正当化をはかる異常な姿。

 第二に、もっぱら「アメリカの窓」から世界を見る異常な姿。

 第三に、極端な大企業応援型の政治で“ルールなき資本主義”をつくってきた異常な姿。

 この三つは、世界の資本主義国のどの政権党とくらべても、日本の自民党政治の際立った、歴然たる特徴になっているのです。それが、小泉内閣のもとで、さらに途方もないところまで膨れ上がってきた。ここに、いまの内政・外交の八方ふさがりの大もとがあります。

二、外交──「ゆきづまり」はどこまで来ているか

 外交を見てみましょう。いま自民党政治の三つの特徴をあげましたが、初めの二つが日本外交の今日のゆきづまりにとりわけ関係があります。

過去の侵略戦争の“名誉回復”をはかる異常さ

 まず、過去の侵略戦争の正当化をはかる、あるいは“名誉回復”をはかる異常さですが、今年は第二次世界大戦が終わって六十周年の記念の年です。そして、世界中があの戦争をふりかえり、こんなことを二度と繰り返させないという誓いの声を高らかに上げました。

 この世界大戦の教訓というのは、東では日本、西ではドイツが侵略戦争をやって敗北した、そのことだけにあるわけではありません。この二つの国が中心になってやった戦争が侵略戦争だったということを世界全体が共通の認識にし、こういう戦争は二度と起こさせない、その決意を込めて世界の新しい秩序の設計をしたのです。これが戦後政治であり、その設計書が国連憲章です。

 日本とドイツが起こしたあの戦争は間違った戦争だったということを世界中が認め、そのことを戦勝国も戦敗国も共通の教訓にして、それによって今日の世界がある。それを認めてこそ世界で生きてゆける。今年は、大戦終結の六十周年の記念の年であると同時に、こういう世界が開かれて六十周年という記念の年なのです。

 ところが、日本では、政権をにぎってきた自民党中心の政治勢力が、あの戦争にたいして、まともな反省をしないまま、戦後の時代を過ごしてきました。

 私は国会に出て驚いたのですけれども、一九七二年、田中角栄首相が中国に行き、過去の反省をした上で日中国交回復をして帰ってきました。その翌年の国会で、私が、「あの戦争は侵略戦争だったと反省しているのか」と質問すると、首相はまったく反省していないのです。「そんなこと私が言えることではない。戦争の性格は、後世の歴史家の判定に待つ問題だ」という答弁でした。いったい、中国に行って何を反省してきたんだと思いましたが、それが自民党という政党の、過去の戦争に対する見方でした。その後も私は同じ問題で歴代の首相を追及しました。「侵略」という言葉を使う首相も時には出てきましたが、なかなかまとまった反省を述べる首相はいません。

 ようやく戦争が終わって五十年という年に、自民党と社会党の連立政権のときに、村山首相が「村山見解」というものを出しました。「侵略戦争」という言葉は使わなかったが、日本が誤った国策によって植民地支配と侵略をおこない、アジアの諸国民に多大な損害を与えたという反省の弁を、このなかで述べました。これが、日本の首相が戦後はじめておこなった、過去の戦争にたいする多少ともまともな反省でした。

 しかし、そのときに、自民党という党の全体が、また政権の全体が、その反省の線で意思統一したのかというと、そうではなかったのです。逆に、“村山見解が出た、これは大変だ”と、これをひっくりかえして戦争の正当化をはかろうという動きが、自民党の党内でも、いちだんと活発になりました。「つくる会」という“新しい歴史教科書”をつくる運動もここから始まり、自民党からも大きな部隊がその応援にまわりました。靖国神社も、日本の戦争の“名誉回復”の宣伝に大がかりで乗り出しました。遊就館という展示館を改築して、“あの戦争は正しかった”という靖国史観の大々的な宣伝センターに変わる、その靖国神社に参拝する国会議員がどんどん出るようになりました。

 これは、世界から見ると、本当に異常な姿です。いまのヨーロッパで、ヒトラーの侵略戦争の“名誉回復”をやろうとしたら、これは大きな政治犯罪を犯すことと同じで、そういう政治家は、政界ではまったく相手にされません。ヒトラーの復活派ということでネオ・ナチ派と呼ばれ、まともな政界の枠外の勢力とされます。ところが日本では、自民党という政権党の中心部分に、過去の戦争の“名誉回復”をはかる勢力がいるわけで、ここに、アジア外交を混乱に陥れた一番の大もとがあるのです。

小泉“靖国”外交は世界の逆流

 小泉さんは古い自民党を「改革」するというが、この問題では何をやったでしょうか。

 中曽根さんが公式参拝をあきらめて以来、これまでの首相がやっていなかった靖国神社への首相参拝を、就任の最初の年から連続強行してきました。口では戦争への「反省」をいうが、行動では、“日本の戦争は正しかった”という靖国神社の戦争観に同調する、これを日本の事実上の国策にしてしまったのです。「改革」どころか、自民党の間違った政治をいっそう極端にしてみせたのが小泉外交でした。

 今年は第二次世界大戦終結六十年の年ですから、世界中が、いままで以上に過去の戦争にたいする日本の態度に目を向けてきました。そのなかで、日本の政治の異常さが際立つ形で浮き彫りになったのです。これまでは、国際問題になるといっても、その範囲は限られていました。首相の靖国参拝といっても、それがどういう意味をもっているのか、なぜ、中国や韓国とのあいだの重大な外交問題になるのか、世界にはあまり知られていませんでした。この神社が「日本の戦争は正しかった」論の拠点になっているなどということは、ほとんど報道もされませんでした。

 私たちが、この同じ会場で、五月十二日に時局報告会を開き、ここで日本外交のゆきづまりとその打開の方向について、問題提起をしました(不破「日本外交のゆきづまりをどう打開するか」)。その問題提起を受けて、世界の多くの人びとがはじめて問題の本質を知ったのですね。

 いまでは、日本に過去の戦争の“名誉回復”をはかる異常な動きがあること、小泉首相の靖国参拝は、その動きの重要な表れの一つだということを、世界が広く知るようになりました。靖国問題は、いまや、日本と中国や韓国のあいだだけの問題ではなく、日本と世界の問題、つまり、日本とヨーロッパの問題、日本とアメリカの問題にもなってきたのです。アメリカ議会は、この七月に大戦終結六十周年についての決議をおこないましたが、そのなかで、特別の一項目を起こして、日本の戦争責任を告発した東京裁判を再確認するということを、とくに強調しました。日本の“靖国派”は、まさに世界に挑戦する逆流として、いま世界的な批判を浴びているのです。

もっぱら「アメリカの窓」から世界を見る異常さ

 日本外交をゆきづまらせているもう一つの異常さは、日本の外交がもっぱら「アメリカの窓」から世界を見ていることです。

 二十年、三十年前ごろには、日本がそういう態度をとっていても、世界であまり目立ちませんでした。実は、ソ連が崩壊して以後、世界の様子が大きく変わってきたのです。ソ連が存在して“米ソ対決”といわれた時代には、いわゆる西側の国ぐには、アメリカ中心に団結しなければならないという思いが強く働きますから、多少いやなことがあっても、だいたいはアメリカびいきの態度をとったものでした。ところがソ連が崩壊してからは、いやなことまで我慢してアメリカの言うことをきく必要はないということで、NATOという軍事同盟を結んでいるヨーロッパの国ぐにも、いやなことはいやという自主性を強めてきました。さらに、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの独立した国ぐにも、大きな力を世界政治に発揮するようになって、世界はすっかり変わってしまったのです。

 そのなかで日本だけが、“米ソ対決”時代と同じように、アメリカいいなりの態度を続けているので、十年くらい前から、そのことが世界のマスコミでも話題になり、“なぜ日本はアメリカいいなりから抜け出せないのか”が、不思議がられるようになりました。

 これでは、日本外交は、独り立ちの国としての信用をもたれません。

小泉外交で“アメリカいいなり”はさらに極端になった

 ここでも、小泉外交は、異常さをさらに極端なものにしました。一例ですが、いまアジアでは、東アジア「共同体」づくりが大きな問題になっています。ところが、日本の外交は、この問題でもアメリカといっしょでないといやだという。アジアの「共同体」をつくろうというのに、なんで太平洋のかなたのアメリカをひっぱりこもうとするのか。これがいつも日本と東アジアの国ぐにとの食い違いのもとになります。

 万事この調子ですが、それが、たいへん危険な形で出てきたのが、イラク問題と憲法問題です。二〇〇三年三月、アメリカがイラク戦争を始めました。そのとき、世界では、戦争に賛成の声をあげた国もあれば、反対の態度をつらぬいた国もありました。数の上では、反対の国が圧倒的に多かったのですが、賛成の態度をとった国も、多くは、その態度を決めるとき、なぜ賛成するか、つきつめた議論をして決めたものです。

 そのなかで、もっとも簡単に戦争賛成の態度を決めたのが、日本の小泉内閣でした。理由は簡単でした。“日本はアメリカの同盟国だ。だから、アメリカの戦争を支持するのは当たり前”。これだけの理屈で賛成を決めたのです。戦争か平和かという大問題にたいする態度を、日本とアメリカは同盟国だから、ということで決めてしまう、アメリカとの同盟関係を、ここまで日本外交の絶対原則にしてしまった政権は、歴代自民党政権のなかにも小泉内閣以前にはありませんでした。

 次に、アメリカからイラクへの自衛隊派兵の要請が来たときにも、無条件で賛成する。やはり、アメリカの同盟国だから協力するのは当たり前というのが、最大の理由でした。

 ここまでアメリカ絶対の小泉首相でも、どうしてもできないことがあります。イラクに自衛隊を送り込むことまでは、憲法の無理押しの解釈でやってのけました。サマワは「戦闘地域」でないとこじつけて、ともかく自衛隊を送り込みました。戦闘行為がサマワ周辺に迫ってきても、まだだまだだといって、頑張り続けています。しかし、その小泉政権でも、派遣した自衛隊の部隊にイラクで戦争をやらせること、ここまでは、いくら憲法に無理押しの解釈を押しつけても、できないのです。

 それでアメリカから、その次の要求が出てきました。自衛隊の海外派遣をおこなうところまで踏み切ったのだから、こんどは、憲法そのものを変えて、自衛隊を、米軍と一緒に戦争できるような軍隊に変えてくれ、という要求です。ここに、憲法改定が日本の政治の大問題に浮かび上がってきた、最大の背景があります。

 これまで、歴代の自民党政権は、憲法九条の規定をごまかして、自衛隊をつくり、増強し、ついに海外派兵に道を開き、インド洋やイラクに陸・海・空の部隊を送り込んでアメリカの戦争に協力することをやってきました。これはすべて、憲法の無理押し「解釈」でやってきたことですが、アメリカの要求は、いまや、憲法解釈のごまかしでは、どうしても越えられない最後の一線にまで来てしまったのです。

 その一線とは、海外派兵した自衛隊が、米軍と一緒に戦争をやれる部隊になること、つまり、日本が海外で戦争をやれる国になることです。日本にこの一線を越えさせようというのがアメリカの要求であり、それにこたえようというのが、小泉内閣のもとでいよいよ本格化してきた憲法改定構想の中心問題です。

 だから、まだ委員会の段階の自民党案ですが、最近発表された案には、日本は「自衛軍」を持つ、ということが明記されています。「自衛軍」とは、自衛隊とは違って、出て行けば憲法への気がねなしに戦争をやれる軍隊です。米軍といっしょに海外に出ていったら、現在のサマワの自衛隊とは違って、米軍と共同で戦争をやることになります。自民党政治の“アメリカいいなり”のゆがみは、小泉内閣のもとで、アメリカの注文に応じて、憲法を変え、日本を戦争をやる国にするところまで来たのです。

 日本がこの道を進むことについて、アジア諸国から、大きな心配の声があげられていることは、みなさんがご承知のとおりです。

 いま、過去の侵略戦争の“名誉回復”をはかる異常さと、世界をもっぱら「アメリカの窓」から見る異常さと、二つの異常さを見てきました。このことが、日本外交の八方ふさがりの状態の大もとにあるのです。

 アジアの近隣諸国との外交も、このゆがみをそのままにしておいたのでは、絶対にうまくゆきません。韓国との関係も、あれだけ“韓流ブーム”が騒がれながら、結局、たいへん冷えた関係になりました。中国との間も、経済がいくら発展しても政治は冷えきっています。

 そして、このことは、韓国と中国との間の問題だけにとどまらないのです。だいたい、近隣の国ぐにと信頼関係を結べない国は、遠くの国からも信頼や共感をえることはできません。日本は、こんど、国連安保理事会の常任理事国になりたいといって、全力をあげて世界中を走り回りました。外務省は、世界の各大陸を走ったようです。しかし、国連のふたを開けてみたら、頼みの綱のアメリカからさえ「拒否」回答が来る始末で、まったく展望を失いました。

 近隣諸国から信用されない国は世界からも信用を得られない。こんどの国連での失敗の最大の教訓は、そこにあるのではないでしょうか。(拍手)

三、経済──「ゆきづまり」はどこまで来ているか

“ルールなき資本主義”をつくってきた異常さ

 次に、経済です。さきほど日本の政治の第三の異常さとして、極端な大企業応援型の政治で、“ルールなき資本主義”をつくってきた異常さをあげました。“ルールなき資本主義”というのは、自民党が政権党になってから五十年、大企業応援型の政治をずっと積み重ねてきた結果なのです。

 ヨーロッパ諸国と日本をくらべてみますと、同じように資本主義を原理としている国でも、社会の現実はこんなに違うのかと驚かざるをえないぐらい、国民の暮らしと権利を守るルールが、日本では、あらゆる分野で決定的に弱いのです。

 実際、残業時間に法律、あるいは法律に代わる制限がないという国は、どこにもありません。過密労働で“過労死”が起きる国も世界にありません。だから“過労死”という言葉は外国では翻訳のしようがなく、“カロウシ”という日本語のままで世界中通用しています。リストラの時に、これを規制する本格的な法律がなく、企業が自由勝手にできる、こういう国もありません。それから派遣労働者などの不安定雇用がこんなに膨れ上がっても、それに歯止めがかけられない、失業保険や年金など社会保障の水準がこんなに低いのに、さらに切り下げで脅かされている、こういう国もありません。環境を守るルールがこれぐらい未確立な国もないし、納税者の権利を決めた法律がない国もありません。教育でも、大学での学費が、こんなに高い国もありません。

 どの分野をとっても、国民のいのちと暮らしを守るルール、権利を守るルールが、こんなに不足している国はないのです。それが、自民党政治がずっと大企業応援型の政治をやってきた到達点なんですね。

 実は、この政治は、八〇年代になってからとりわけひどくなったのです。七〇年代という時代には、「高度経済成長」のもとで公害が日本中に広がり、イタイイタイ病などの公害裁判で企業の責任が明るみに出ました。石油ショックで日本経済も国民生活も困り抜いたときに、一部の石油関連企業が、いまこそ「千載一遇」の好機だと言って、悪徳商法に走ったことが国会で摘発される、さらにロッキード事件では、アメリカ企業を中心とする海を越えての汚職事件に日本の大企業もくわわったことが明らかになる。こういう諸事件が重なって、“企業悪”といいましょうか、大企業が引き起こす社会悪にたいする警戒心が日本の社会に大きく広がった時代でした。こういう状況のもと、政治の上でも、露骨な大企業応援型の政治は、やりにくくなったものでした。

 それが、八〇年代にガラッと変わりました。何がその転換の中心となったのか。私は、こんど戦後史をずっとふり返る機会があって、なるほどこれだったかと腑(ふ)に落ちたのですが、その転機になったのは、八〇年代前半のいわゆる“臨調行革”でした。表向きの任務は「行政の改革」でしたが、政府がその総大将に財界の大御所、財界団体・経団連の会長だった土光敏夫さんを任命しました。それで、この時期に“民間大企業こそ、その仕事ぶりでも、生活ぶりでも、日本社会の模範だ”といった大宣伝を、マスコミ総動員で何年にもわたって展開したのです。

 なかでも象徴的だったのは、NHKが放映した土光さんに密着したドキュメント番組で、土光さんと奥さんが二人でメザシをおかずに食事をしている風景に焦点があてられたことでした。それ以来、“メザシの土光さん”が合言葉になって、民間大企業というのは、あんなに質素な暮らしをして、苦労して日本の経済を支えている、この大企業に学べということになる。

 こんな調子で、いつの間にか、七〇年代の大企業への警戒心が打ち消され、逆に、民間大企業を日本社会の模範として持ち上げる風潮が強まり、大企業応援型の政治がふたたび天下御免でまかり通るという状況がつくりだされました。それから、現在までの約二十年間、大企業中心主義の政治が、年ごとにひどくなってきたのです。

 私は、この点では、“臨調行革”というのは、大企業・財界の“名誉回復”運動という側面をもっていた、と思います。

財政の大破綻も大企業応援型の政治が生み出した人災

 いま、日本の財政は大破綻(はたん)の状態に落ち込んでいて、社会保障の改悪も庶民増税も、みな財政破綻だから仕方がないという口実でおこなわれています。しかし、財政の破綻というのは、天災ではないし、国民に責任がある問題でもない。すべて、自民党政権が大企業応援型の政治を無責任に強行したことで引き起こした人災です。

 とくに、大企業応援型の政治が天下御免になった八〇年代後半以後、自民党政治は、経済の分野で、とんでもない二つの大失政をやってしまったのです。経済のゆきづまりの現状を考えるためにも、それから抜け出す方策を考えるためにも、どうしても、この大失政の経過と責任を明らかにする必要があります。

 日本の財政破綻はどんなに深刻か。その度合いをはかるモノサシとしては、国と地方の借金(長期債務残高)の総額を、その国の国内総生産(GDP、これで経済のおよその規模がわかります)で割った数字がよく使われます。ヨーロッパでは、借金の総額がGDPの60%を超えたら危ない、ということで、60%が財政の健全・不健全をはかる一つの基準とされています。このモノサシを手に持ちながら、日本の財政の動きを見てみましょう。

(一)90年代以後の無責任なむだ遣い政策

 日本の財政は、八〇年代から九〇年代に入るころまでは、だいたいこの健全ラインを守っていました。九〇年度のモノサシは、59%でした。

 九〇年代に入って、バブル経済が崩壊した時に、経済の落ち込みを公共事業の拡大で立て直せという声が、財界方面から強くあげられました。それにくわえて、アメリカからも、日本は大規模な公共事業政策で世界経済の先頭に立て、という圧力が加えられて、一九九〇年には十年間で四百三十兆円の公共事業をやるという取り決め(ブッシュ〔父〕・海部会談)が、続いて九四年にはそれをさらに六百三十兆円に拡大するという取り決め(クリントン・村山会談)が日米間で公式に結ばれます。

 この二重の圧力のもと、政府は、財政事情などそっちのけで、公共事業拡大の道をひた走るのです。実際、一九八〇年代の公共事業投資は、十年間の合計で二百八十一兆円でしたが、九〇年代には、それが十年間で四百六十兆円、なんと一・六倍に増えました。出発点がどんなに健全でも、こんなことをやれば財政破綻に転落するのは当たり前なんですよ。

 もう一つ、同じ時期に急膨張したのが防衛費でした。八〇年代の防衛費は、十年間の合計で三十兆五千億円でした。それが九〇年代には、十年間で四十六兆八千億円に増えました。一・五倍です。

 しかも、防衛費のこの急膨張には、たいへんな特質がありました。九〇年代には、三百両の90式戦車(合計三千億円)とか、イージス艦六隻(合計八千億円)とか、高価な最新鋭装備が大量に配備され、それが防衛費の大きな部分を占めているのですが、それらはすべて、“米ソ対決”時代に、アメリカの注文を受けて対ソ戦への備えとして計画されたものばかりでした。ところが、九〇年代に入ってすぐソ連が崩壊しました。もう対ソ戦に備える必要はなくなったのですが、政府の方は、そんなことはお構いなしに、以前の計画に従って、いらなくなった装備を買っては配備するという仕事をやり続けたのです。これ以上ばかげたむだ遣いは考えられません。

 ですから、こんなことが起こりました。北海道に三百両配備するという90式戦車は、たいへん重くて、この戦車のために特別に頑丈につくられた道路や橋があるところでしか動けない、と言います。北海道では、そのために、戦場になりそうなところには、特別の橋や道路をつくりました。しかし、情勢が変わって、対ソ戦の心配がなくなった、今度は配置替えして、日本のほかの地域に持っていこうと思っても、ほかの地域には、この戦車を通せる橋も道路もない(笑い)。無理に通したら、日本列島の道路も橋も、片端から壊れてしまう。だから、北海道においておくしかないのだ、という話です。そういう戦車を、ソ連が崩壊したあとも、大きな予算を投じて、造り続けてきたのです。調べてみたら、ソ連解体前に配備したのは三十両だけ、あとは全部、相手がいなくなり、むだと決まってから配備し続けたものだとわかりました。

 イージス艦、これも対ソ戦用に用意した最新鋭の軍艦で、六隻で八千億円という巨額の費用のかかる装備ですが、ソ連が崩壊したあとでは、日本にはまともな使い道がないのです。それなのに、ソ連崩壊後、平気で製造と配備を続けています。だいたい、第一号艦が最初に配備されたのが九三年、ソ連崩壊の二年後ですよ。いまインド洋で、アメリカの軍艦に重油を供給する日本の給油艦を護衛することに使っていますが、おそらく世界でいちばんコストの高い給油活動になっているのではないでしょうか。

 こんなむだな兵器を買い込むために、九〇年代の日本の防衛費は、八〇年代の一・五倍にも膨れ上がったのです。九〇年代には、ソ連の解体による情勢の変化に対応して、世界的には軍事費を減らすことが、アメリカやイギリスを含めて、世界の大勢になりました。そのなかでみても、日本の防衛費の膨張は、たいへん異様なことでした。

 こうして、公共事業と防衛費の二重の形で、九〇年代に、こういう無責任なむだ遣い政策が国策としておこなわれたのです。その結果が、財政の大破綻です。その破綻は、数字の上にはっきり表れました。

 さきほど、財政破綻の度合いを示すモノサシだといった、国・地方の借金の国内総生産(GDP)にたいする割合を見てみましょう。九〇年度に、これが59%で、健全ラインだったことは前に紹介しました。それが、九五年度には82%で、早くも危険ラインを示す赤信号がつきました。それを無視してむだ遣い政策をさらに続け、二〇〇〇年度には126%です。こうなると、赤字が赤字を呼ぶ悪循環が始まって、今年度二〇〇五年度末には、150%を超えることが予想されています。

(二)企業減税・庶民増税への路線転換

 もう一つの大失政は、臨調行革のあと、税金政策の大転換がおこなわれて、「大企業には減税を、庶民には増税を」というのが、政府の税制改革の長期戦略になったことです。

 実は、それまでは、税金の改革といえば、だいたい庶民には減税、増税は企業の法人税で、というのが、常識的な方針となっていました。財界は、前から、それを切り替えることをねらっていましたが、臨調行革での財界・大企業の“名誉回復”運動が成功したとみると、まず第一にこの問題を政府に迫ったのです。そして、中曽根内閣のときに、“これからの税制改革は、大企業には減税、増税は消費税など庶民増税を中心でいこう”という大方針で、財界と政府が一致しました。

 それから以後を思い出してください。増税といったら、消費税の導入とその引き上げ、減税といえば、まず法人税の引き下げ、こういうことばかりが続いたでしょう。

 その結果は、税金の統計にはっきり表れています。消費税の導入前の最後の年、一九八八年の税金の額と、決算が発表されている最新の年、二〇〇三年の税金をくらべてみると、企業が負担する法人税(国と地方の合計)は、八八年の二十八兆二千億円から〇三年の十六兆五千億円に、なんと十一兆七千億円の減税です。庶民の側はどうかというと、その間に消費税が導入され、さらにその税率が3%から5%に引き上げられました。その結果、八八年にはゼロだった消費税が、〇三年には十二兆一千億円、これはまるまる増税分です。企業の税金を十二兆円近くまけてやって、その分を消費税の形で庶民の背に負わせた。この仕組みが、ここにありありと出ているのです。

 この税金問題での路線転換は、財政危機の問題にも、深刻な影響を与えています。

 昔は、景気がある程度回復して、大企業がもうけをあげるようになると、法人税が自動的に増えて政府の収入が増える仕組みになっていました。ところが、企業減税を積み重ねてきたいまは、そこが違ってきたのです。

 ここでも、数字を見てみましょう。

 たとえば、いま、日本の企業でもっとも大きなもうけをあげているのは、トヨタ自動車です。この企業の〇三年度の申告所得は七千九百三十三億円でした。そして、この年の納税額は三千三億円です。これが、法人税減税を実施する以前の八〇年代の税制だったら、納税額がどれぐらいになっていたか。計算してみましたら、四千八百四億円と出ました。以前の税制だったら、現行の一・六倍の税金を払っていたはずです。

 これは、トヨタだけではありません。トヨタを筆頭に、NTTドコモ、本田技研、武田薬品など、申告所得上位十社について計算してみますと、〇三年度の申告所得の合計が約三兆六千億円、納税額が約一兆四千億円となりました。八〇年代の税制で試算してみると、払っていたはずの税金は約二兆二千億円、やはり現行の一・六倍です。

 大企業にたいして、これだけの大減税をやってきたのです。そのために、日本の税制では、景気が回復しても、それが法人税の増収となって、国の収入を増やしてゆくという仕組みが、大きく損なわれてしまいました。これが、財政問題での自民党政治の第二の大失政です。

小泉首相の「民」とは「民間大企業」のこと

 いま、二つの大失政の話をしましたが、これを私がふり返るのは、いまの財政大破綻から抜け出す道を真剣に考えるためには、どうしても、政治のどんな間違いからこういう破綻が生まれたのかを明らかにする必要があるからです。それをしないと、政治のどこを変えるべきかの方向が定まらないでしょう。反省と総括を真剣におこなったら、大企業応援型の政治という大もとに破綻の原因があり、そこからの転換こそが必要だという改革の大方向も、浮き彫りになってくるはずです。

 ところが小泉内閣はその反省をいっさいしません。責任の問題をいわれると、“あれは古い自民党がやったんだ、私はその自民党を壊しているんだ”といった顔でごまかそうとします。しかし、そんな責任逃れは通用しません。小泉さん自身、古い自民党の議員をやり、大臣をやってきたのですから。そして、古い自民党に責任があることをきちんと認めるのだったら、古い自民党の政治と手を切る立場を、明確に国民の前に示す責任があるはずです。

 ところが、これまでの小泉「改革」が示してきたのは、それは、大企業応援型の政治という誤った自民党政治にメスを入れるのではなく、反対に、情け容赦なくこの路線を強行しようとする「改革」ではなかったでしょうか。だからこそ、小泉内閣が「改革」に手をつけるごとに、国民負担の増大、給付の切り下げ、さらには庶民増税と、国民のあいだでは、痛みだけが広がることになるのです。

 はっきりいって、私は、小泉さんという人は、大企業応援型という自民党政治の害悪を、一番深く身につけている政治家ではないか、と思います。

 去年、年金の面での経歴が問題になった時、小泉さんが、会社から給料をもらいながら、会社の仕事はまったくしないで、実際には選挙運動に専念していた時期があったことが明らかになりました。そのとき、「会社もいろいろ」と言ってごまかしたことが、当時、話題になりましたが、小泉さんの意識では、政治家になるときにも、企業のお金で選挙運動をやって当たり前ということになるのです。政治家が企業の応援を受けるのも当たり前なら、政治家が企業を応援するのも当たり前、企業応援型の政治をやって何の痛みも感じない、というのが、私は小泉政治の非常にあらわな特徴だ、と思います。

 小泉首相は、「官から民へ」といつも言いますが、あの「民」が国民の「民」だと思ったら大間違いです。これは、民間大企業の「民」なんですよ(笑い)。だから、「構造改革」をやると今は「痛み」があるが、やがては「民」が楽になる、という小泉さんの言葉を、国民が楽になるという話だと受け取ったら、それは誤解になります。「構造改革」をやったら民間大企業が楽になる。現にどの大企業も、みんなもうかるようになっているじゃないか、これで「構造改革」の成果が上がっているということになる。この目で見ると、小泉政治のやり方がよく分かるのです。

 郵政民営化の話でも、そうです。テレビでも、郵政民営化というのは、国民にとって、これほど分からない話はない、ということがよく言われます。国民にとって不便になる「民営化」をどうしてやるのか、国民から強い要求が出ているわけではないのに、なぜこれを強行するのか、せっかく各部門が協力してうまくいっている郵便局を、どうしてわざわざ四つに分けてみたり、くっつけてみたり、やっかいな「改革」をやるのか、「民」が国民だと思うと、不思議なことばかりです。

 しかし、小泉首相のいう「民」とは民間大企業のことだと割り切ると、すべてがすっきり分かってくるはずです。この場合の「民間大企業」というのは、なによりもまず、全国銀行協会に集まっている銀行と、生命保険協会に集まっている生命保険会社です。今年の二月に「朝日」「毎日」「読売」「日経」「産経」という五大全国紙に、この二つの協会が全面広告を出して、郵政民営化支持の大キャンペーンをやりました。読んでみると、「公正な競争をやれるようにしてもらいたい」、要するに自分たちの競争相手である郵便局を何とかおさえこんで、自分たちがもっともうけやすい仕組みに変えてくれ、その立場から「郵政民営化」に期待する、という広告でした。要するに、銀行と生命保険会社がよりうまく商売ができるように、郵便局の金融仕事や保険仕事は極力おさえこんでほしい、できればなくなってほしい、その「民」の要求を背負って小泉さんが、「郵政民営化」は「構造改革」の本丸だと位置づけたのです。これは、銀行協会と生命保険協会の立場から見れば非常に分かりやすい話ですが、郵便局の利用者である国民の立場から見ると、なぜやるのか全然分からないことになるのです。

 この間、参院で法案が否決されたときにも、翌日の新聞にすぐ、「企業の成長戦略が描けなくなる」、自分たちの企業の発展にとって困った事態が生まれたという、これらの業界の意見がすぐ報じられました。このように、「民」──民間大企業とその業界の利益と要求が、「郵政民営化」の政策のいちばんの根っこにあるのです。

 もし、現在続けてきた郵便局の体制に何か不合理な点がおきたというのだったら、それは利用している国民の立場を最優先にして、解決すべきでしょう。政府は、この問題にたいして、競争相手の銀行や生命保険会社のもうけ優先で取り組むべきではありません。そういうやり方をするとしたら、それこそ、それは古い自民党政治──大企業応援型の政治の紛れもない現れだということになるのです。(拍手)

金権政治にメスをいれる道義感覚がない

 私はもう一つ、小泉「改革」について、みなさんに見てほしいことがあります。それは、小泉首相の「改革」論には金権政治、政治と大企業の癒着にメスを入れる改革がまったくない、ということです。

 いま橋梁(きょうりょう)談合が問題になっています。それから官僚の企業への天下りが問題になっています。アスベスト公害で、関係企業が事実まで隠してあの公害を多年にわたってまき散らしてきたことも問題になっています。これは、大企業の社会悪がいま新しい形で、各分野で問題になっているということです。ところが、あれだけ「改革」を言う小泉さんが、現実に起こっている大企業の社会悪の解決のために、自分で立ち上がったことが何かあるかというと、何一つないのです。企業の政治献金をはじめ、政治と企業の癒着をただす改革も、小泉首相の「改革」プログラムには、含まれていません。

 私は、小泉さんの金権政治に対する道義感覚のなさを、自分の経験で痛感したことがあります。いまから九年前、九六年のことですが、小泉さんが橋本龍太郎内閣の厚生大臣をやっていたときでした。そのとき、病院に寝具の供給をしたり医療食を供給したりしている福祉関係の団体が、官僚の買収を大規模にやり、不法なもうけをあげていたという事件が発覚したのです。しかも、その団体から、橋本首相と小泉厚生大臣に政治献金がいっていることも明らかになりました。私は国会の本会議で、橋本首相と小泉厚生大臣の二人を名指しして、政治献金についての質問をしました。“この政治献金について、『届け出てあるから』といった言い訳は通用しない。政治道義の基準にてらしての是非こそが問題だからだ。厚生行政に深い関係をもつ政治家が、厚生行政と直接の利害関係をもつ福祉団体から献金を受けたことについて、政治倫理に照らして考えることはないか”。これにたいして、橋本首相は、法的処理の問題とあわせて、政治倫理についての考えにも触れた答弁を一応しました。ところが厚生大臣の方は、“サッカーやオペラだって、企業から寄付をもらわないと成り立たないじゃないか。国民のために奉仕している政治家が企業から金をもらって何が悪い”と、全面的に開き直りました。

 私は、そのとき、あきれながら、この人物は金権政治に対する道義感覚がまったくないな、と思いました。その政治姿勢が、いま内閣の首相とこの政治家がやっている政治に、そのまま表れています。

政治と財界との癒着はここまで来ている

 「官から民へ」といいますが、自分自身は、「官」の最高責任者である首相として、財界と平気で手を組み、国民に痛みだけを求める財界・大企業本位の「構造改革」、銀行・生保業界本位の「郵政民営化」を平気で推進し、さらには庶民に増税の負担を押しつける大増税プランを平気で計画する、ここに小泉「改革」の本質があります。

 小泉論の最後に、その姿を生きた形で表したひとつの情景を紹介したいと思います。八月八日午後七時四分、国会が解散されました。小泉首相が首相官邸で解散についての記者会見をやったのはその夜の八時半です。この間の一時間二十六分、首相はどこで何をやっていたか。解散のとき、ホテルニューオータニに日本経団連の奥田会長と御手洗副会長らの首脳部が待っていました。首相は解散のあとすぐここに駆けつけて、食事を共にしながら、総選挙の支援の相談をしたのです。そこですっかり打ち合わせた上で、記者会見に出てきて、国民にこんどの解散の意義を語った、これが、国会解散後の小泉首相の時間表でした。

 みなさん、これこそ小泉さんがひきいる自民党と財界との癒着の、まぎれもない姿ではないでしょうか。(笑い)

 日本の政治を本当に改革するというなら、大企業・財界と政治とのこの癒着の構造をこそ断ち切らなければなりません。その正反対の方向に立っているのが小泉政治です。

 いまの小泉政治には、外交についても内政についても、改革の名に値するものは何一つありません。あるのは、自民党政治の誤りをあらゆる方面でさらに極端なものとして、日本の政治をゆきづまらせることだけです。

四、日本共産党は、新しい政治を展望しつつ、「たしかな野党」の責任を果たす

党綱領が日本共産党のマニフェスト

 いま自民党政治には三つのゆがみがある、小泉内閣はそれらを極端化したということを見てきました。これが日本の政治のゆきづまりを生んでいます。政治のゆきづまりを打開する道は、この三つのゆがみを正す新しい政治を起こす以外にないのです。

 日本共産党は、自民党が結党した最初のころから、自民党政治の間違った方向に反対して国民本位の政治の転換を求めてたたかってきた政党です。だから、自民党政治に代わる新しい政治を起こす方針・政策・展望を、日本の政党の中で一番明確に持っている政党であります。

 私たちは昨年一月の党大会で新しい党綱領を決めました。そのなかで、当面の日本の政治・経済・社会の民主的な改革の方針を打ち出しました。そこには、いまいった自民党政治の三つのゆがみを正す改革の方向が明記されています。

 まず、過去の戦争にたいする態度の問題では、綱領は、日本の侵略戦争と朝鮮・台湾にたいする植民地支配の誤りを歴史的に明らかにし、「日本が過去におこなった侵略戦争と植民地支配の反省を踏まえ、アジア諸国との友好・交流を重視する」ことを、平和外交の方針の第一にうたっています。

 アメリカへの従属打破の問題では、綱領は、日米安保条約を廃棄し、対等平等の立場にもとづく日米友好条約を締結すること、いかなる国とも軍事同盟を結ばない平和・中立・非同盟の道に進むことを大目標にしながら、そこへ進む以前にも、自主・独立の平和外交を展開するという方針を、八項目の内容をあげてうたっています。

 憲法の問題でも、「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」として、いかなる改定にも反対する立場を明確にしています。

 経済の面での改革では、大企業応援型の政治を変える中心問題として、「『ルールなき資本主義』の現状を打破し、……ヨーロッパの主要資本主義諸国や国際条約などの到達点も踏まえつつ、国民の生活と権利を守る『ルールある経済社会』をつくる」ことを、第一の柱としています。財政の面でも、「国の予算で、むだな大型公共事業をはじめ、大企業・大銀行本位の支出や軍事費を優先させている現状をあらため、国民のくらしと社会保障に重点をおいた財政・経済の運営をめざす。大企業・大資産家優遇の税制をあらため、負担能力に応じた負担という原則にたった税制と社会保障制度の確立をめざす」と、改革の基本点を示しています。

 このように民主的改革の大方向はきちんと綱領にうたっているのです。これを政策体系としてまとめ上げたのが、これまでさまざまな機会に説明してきた「日本改革」という方針です。

 最近はやりのマニフェストという言葉を使いますと、綱領が示している民主的改革が、日本共産党のマニフェストです。これは、その時々の選挙のときだけのマニフェストではないんですね。二一世紀のかなり長い時期まで展望した、日本共産党の責任ある公約であり、そういう意義をもったマニフェストです。

 マニフェストという言葉は、財界団体の経済同友会と民主党が、日本の政界に持ち込んできたヨーロッパ仕込みの言葉ですが、そもそもの源流を訪ねますと、実はマルクスとエンゲルスがいまから百五十年あまり前に書いた「共産党宣言」(共産党のマニフェスト)が、そもそもの起こりなんです。だから、国民に対してわが党はこういう社会、こういう改革を展望しています、という公約、こういう意味でいえば、歴史から言っても、私たちの綱領こそが、実はマニフェストの本流なんです(笑い)。こういうことも、頭に入れておいてください。

政権への過程では、野党としての仕事が大事

 この方向で自民党政治のゆがみを正し、新しい政治を起こすのが私たちの大目標ですが、この改革を本格的に実行するには、民主的な政権が必要です。私たちは、二一世紀の早い時期に民主的な連合政権をつくることを大きな政治目標として、国民多数の合意を得るためにがんばっています。

 しかし、その情勢が熟するには、時間がかかりますから、それまでは、当然、野党として活動します。この時期に、野党として責任をどう果たすのか。それは、日本に新しい政治を起こす展望からいっても、いまもっとも重要な任務なんです。

 野党の時代にこの仕事をしっかりやらない政党は、いくら政権、政権と言っても、またかりに政権についたとしても、自民党政治に代わる新しい政治の担い手になることはとてもできません。

 こんどの選挙で日本共産党は、「野党としての公約」を掲げ、選挙のキャッチフレーズも「たしかな野党が必要です」としました。これは、結構評判がいいようですが、これは、いま言ったことがらを多くの皆さんにわかってもらいたい、そういう気持ちからやっていることです。

 とりわけいまのような国民いじめの間違った政治が続いているとき、そしてまた、野党第一党がその政治の仲間になりたいと言い出しているとき、「たしかな野党」には、日本の未来のために果たすべき、特別に重大な任務があります。それを大きくまとめてみますと、(一)間違った政治に反対する、(二)国民の要求実現のために奮闘する、(三)世界の舞台で野党外交を展開する、この三つが、「たしかな野党」がになうべき大事な仕事になるでしょう。その中身について、これからお話ししたいと思います。

(一)間違った政治に反対する

 どんな嵐にも立ち向かって、間違った政治に反対するというのは、八十三年の歴史に裏づけられた日本共産党の不屈の伝統であって、私たちは、どんな場合でも、平和と民主主義、国民の利益に立った正論を貫くという大道を踏み外したことはありません。

いのちがけで侵略戦争に反対

  戦前は、野党どころか、合法政党としてさえ認められず、結党の最初のときから、あらゆる迫害が集中しました。そういう中で、日本共産党は、侵略戦争反対、植民地支配反対の旗を不屈に掲げてたたかいました。そのために、先輩たちのあいだからは、多くの犠牲者が出ましたが、暗黒政治のもとでの日本共産党のたたかいは、少なからぬ無党派の人々の苦闘とあわせて、あの時代にも、日本の社会に正義と良心があったということの歴史的な証しとなっているではありませんか。

悪政を追及する国会でのたたかい

 戦後は、民主政治の基礎がおかれた時代となり、野党として悪政に反対するたたかいの分野は、さらに大きく広がりました。

 まず国会でのたたかいというのは、戦前はなかった分野です。そこでいま、共産党が、「たしかな野党」としてどんな役割をしているか。

 こんどの国会での郵政民営化の議論をとってみましょう。議席が少ないと、国会の論戦の持ち時間はたいへん少なくなります。郵政問題では、衆参両院に特別委員会がつくられましたが、政党ごとの持ち時間をくらべると、両方あわせて、民主党は七十九時間二十七分、これにたいして共産党は十一時間五十一分で、民主党の七分の一です。では、論戦の中身はどうだったかというと、私は、政府が提案する「郵政民営化」が国民にとってどんなに有害なものであるかを実証した点でも、政府案の矛盾を具体的に浮き彫りにした点でも、まただれのための「民営化」かという本当のねらいを明らかにした点でも、中心的な役割をになったのは共産党だったということを、はっきり言いたいと思います。「しんぶん赤旗」が、最近、「ここに野党あり」という国会論戦をまとめたシリーズを連載しました。その第一回(八月十一日付)が、ほぼ全面を使って「郵政民営化」論戦の特集になっていますから、ごらんいただきたいと思います。

 やはり「たしかな野党」でないと、持ち時間が多くても「たしかな論戦」はできないのです。

世論を動かした靖国問題での活動

 内外の世論に働きかけることも、活動の大事な分野です。さきほど、小泉首相の靖国参拝に関連して、五月十二日に、この会場で時局報告会をやった話をしました。ここでの問題提起は、日本と世界の世論に大きな影響を与えました。あるジャーナリストが、それ以後のマスコミなどの動きを総括して、あの提起によって「靖国史観がはじめて被告席についた」という感想を寄せてくれました。これまで、靖国神社といえば、その戦争観をだれも正面から批判しようとしない、マスコミでも一種の“聖域”のようになっていたが、その壁が破られて、自由な討論が始まるようになった、そのことを「靖国史観が被告席についた」という言葉で表現してくれたんですね。

 それから、外国の報道陣も、私たちの問題提起を受けて、“自分たちは今まで靖国神社に行かないでものを書いていた。これはまずかった”と、靖国神社に出かけ、遊就館なども自分の目で見たうえで、報道や評論を書くように変わりました。そして、現場に行くと、「いまの世界に、こんな宣伝を平気でやっている場所があったのか」とびっくりして帰ってくるのです。靖国史観が世界の逆流だということを、本当にじかに感じるのですね、それがアメリカのニューヨーク・タイムズの記事になり、フランスのル・モンドの記事になり、イギリスのフィナンシャル・タイムズの記事になり、真実が世界に広がったのです。

 東京にいる各国の外交団のあいだでも、「靖国に行ってきたか」という会話が、よく交わされるようになった、と聞きます。

 こういう変化は、日本の世論の動きにも、大きな影響をおよぼしています。共同通信社が、首相の靖国参拝問題についての世論調査をかなり系統的にやっているのですが、去年の十二月の調査では、「首相は参拝すべきだ」が51・0%、「見送るべきだ」が40・8%で、参拝支持が多数派でした。ところが六月の調査では、「参拝すべきだ」が31・7%に減り、「見送るべきだ」が59・4%に増えて、完全に逆転しています。大きな変化です。

 こういう世論の変化に、多少とも貢献したといえる政党が日本にあるかと言えば、私は、そういう政党は日本共産党以外にないと、確信をもって断言できると思います。(拍手)

 この問題でも、野党第一党の中には、自民党の“靖国派”といっしょに「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」をつくっている政治家が何人もいるし、なかには、靖国神社で、“こんど戦争をやるときは勝つことを誓うんだ”と話している議員までいるというのですから。(笑い)

憲法九条を守る運動

 憲法問題では、さきほど志位さんも述べたように、「九条の会」の発足以来、私たちもこれに参加して憲法九条を守る運動の発展に力をつくしてきました。先日の東京・有明での講演会で、全国の各地域、各分野で、三千を超える「九条の会」ができたと、報告されました。

 戦後の日本の平和・民主主義の運動の歴史のなかでは、一九六〇年の安保改定に反対する闘争が、最大規模の発展をした国民運動として記録されているのですが、このとき、全国の市町村に二千を超える共闘組織ができたということが、文字通り歴史に残る発展として評価されてきました。組織された単位が違いますから、機械的な比較はできませんが、安保闘争のこの歴史にてらしてみても、一年間に三千を超える「九条の会」の網の目ができたことのすばらしさがわかるのではないでしょうか。

 そういう仕事が、私たちも参加した共同の運動のなかでおこなわれてきた。ここにも、間違った政治に反対する“たしかな野党ここにあり”、という姿が現れている、と思います。

(二)国民要求実現のために奮闘する

 国民要求実現のために奮闘する、野党のこの役割を果たす面でも、私たちは多くの歴史を持っています。いまでも、国民とともに奮闘してこの要求を実現したという経験は、いろいろな分野で、全国的な実績も、地方地方の実績も、無数にあるでしょう。ここでは、長い目で見た、大きな実績の一、二を紹介しておきます。

憲法に「国民主権」の原則を書き込んだ

  いまの憲法には、前文と第一条に「国民主権」の原則がうたわれています。この憲法は一九四六年の憲法制定議会で決まったものですが、最初、この議会に提案された憲法草案には、「国民主権」の原則は明記されていませんでした。「国民主権」なしの草案だったのです。

 ところが、それにたいして、私たち以外のどの政党も異論をとなえませんでした。「国民主権」の原則なしで結構という態度だったのです。日本共産党だけが、この草案はおかしい、「国民主権」の原則を明記せよと主張しました。憲法制定議会の議席総数は四百六十六議席、そのなかで日本共産党は五議席でした。その五議席の共産党が、憲法草案への「修正案」をだして、「国民主権」の規定をきちんと書き込むことを要求したのです。

 議会のなかでは少数派であっても、日本共産党の主張の背後には、民主主義憲法の実現を求める日本国内の世論がありました。また、日本の民主化を真剣に求める世界の世論もありました。そのなかで、極東委員会という対日政策の基本を決める任務をもった国際機関が、「国民主権の原則を、日本の憲法は明確にうたうべきである」という決定をしました。内外のそういう声が高まるなかで、提案した政府の側も、これらの声を無視することができなくなり、議会のなかでは日本共産党だけが主張し続けた「国民主権」の原則が、いまの憲法に書き込まれるようになったのです。これは、「たしかな野党」である日本共産党の主張が、国民の要求と結びついて議会と政府を動かしたすばらしい例ではないでしょうか。

無担保無保証人融資と老人医療費無料化の制度

 次に、国民の暮らしの問題で、二つの例をあげましょう。反動攻勢でだいぶ切りちぢめられたりしていますが、いまなお、営業や暮らしを守る支えになっている制度に、無担保無保証人融資という制度と、お年寄りの医療費を特別に支援する制度があるでしょう。これは、どちらも、革新的な自治体が全国にさきがけて実施し、それが全国に広がり、国の制度にもなっていったものですが、その誕生と拡大の過程では、日本共産党が大きな役割を果たしました。

 それぞれの経緯を紹介しますと、まず、中小業者にたいする無担保無保証人融資の問題です。これを最初に実施したのは、一九五一年、京都の蜷川民主府政ですが、京都の府政のなかでこれを最初に提起する役割を果たしたのは、共産党でした。それが、たちまち、全国に広がり、六〇年代には、国の政治でもとりあげざるをえなくなったのでした(六五年の中小企業信用保険公庫法改正)。

 老人医療の無料化は、一九六九年、東京の美濃部革新都政によって、全国で最初に実現されました。では、この要求が日本の政治で一番最初に提起されたのはいつかというと、それは一九六四年の日本共産党の第九回大会だったのです。ここで老人医療費の無料化という旗が上げられ、その実現を求める運動が全国に広がる、そのなかで、わが党が与党になる革新都政が生まれる、こうして旗を上げて五年目に首都東京で現実の制度として実現されることになったのでした。この制度もたちまち全国に広がってゆき、一九七二年には、国の制度にも取り入れられて、全国的に実施されることになりました。

 こういう実績が、「たしかな野党」としての日本共産党の歴史には無数にあります。以前、「共産党憎し」で理性を失った政党が、「野党には実績はありえない」(笑い)という宣伝をしきりに振りまいて、自分たちが野党だった時代まで総否定するというばかげた矛盾におちいったことがありましたが、日本共産党は、国民に責任を負う政党として、間違った政治に反対すると同時に、政治を動かして国民要求を実現する実績も、着実に積み重ねてきているのです。

(三)世界の舞台で野党外交を展開する

 野党としてになう第三の任務は、世界の舞台で野党外交を展開することです。

 日本では、私たち以外に野党外交を本格的に展開している党はありません。おそらく世界でもあまり例はないと思います。そういう新しい活動ですから、その意味や役割を少し詳しく説明したいと思います。

各国政府との交流はここまで発展してきた

 私たち自身も、以前は国際活動というと外国の共産党との関係が主でした。干渉への反撃もありましたし、一致点で共同の活動をやることもありましたが。

 しかし、日本の国政にたずさわる以上、それだけでは足りない、広く外国の政府や政権党を相手にした外交活動が必要だということを考えるようになりました。そう古い時期ではありません。この方向での外交活動は、一九九九年、いまから六年前に、私がマレーシアを訪問したのが始まりでした。

 それ以来わずか六年ですが、この外交活動は、私たち自身が驚くような発展をとげてきたのです。この間、その国を訪問してその国の政府と会談したり、日本に来たその国の政府や政権党の代表団と会談したり、一対一の会談をやった国の数は二十カ国におよびますが、東京にある各国の大使館とは、はるかに広範な規模で、話し合いや交流の活動をおこなっています。

 私たちは、いろいろな国際組織とも、密接な関係を発展させてきました。そのいくつかをあげると、「非同盟諸国首脳会議」、これは百十五カ国が参加している大組織です。「イスラム諸国会議機構」、加盟国五十七カ国を数えるイスラムの国際組織です。それから「アジア太平洋円卓会議」、東南アジア諸国が中心ですが、今年の会議には世界の六十二カ国が参加しました。「アジア政党国際会議」、昨年九月、北京での会議に私が参加しましたが、出席したのは三十五カ国から来た八十三の政党でした。日本共産党は、これらの組織が国際会議を開くごとに、ある場合には、会議の正規の構成員として、ある場合にはゲスト(客員)として招待される資格を得ています。

 日本の共産党として、さまざまな立場に立つ政府と公式の会談をしたりすることは、私たちにとってこの六年来開いてきたはじめての経験ですが、おそらく相手の国にとっても、政府として外国の共産党と会談するという経験は初めてだという場合が、少なくないと思います。たとえば、私たちの代表団は、イラク戦争が切迫する時期に、中東のイスラム諸国を歴訪して、イラク戦争の問題について各国政府と話し合いました。そのなかには、サウジアラビアも含まれていました。ここは、イスラム教をおこした教祖ムハンマドが生まれた土地で、イスラムの「盟主の国」といわれているところです。その国が、日本の共産党を迎え入れて政府と会談したというので、イスラム世界に詳しい人たちのあいだでは、大評判になっているのです。いまでも、“この話は本当か”と言ってくる人がずいぶんいますからね。

 それだけではなく、イスラムの国でもっと深い関係が発展しているところも、生まれています。チュニジアというイスラムの国があります。地中海に面している北アフリカの国ですが、その国の政権党(立憲民主連合)と私たちのあいだには、お互いの党大会に、代表を派遣しあうという深い関係が築かれています。一昨年、チュニジアの党大会には、私が出席しましたし、その翌年の私たちの党大会には、チュニジアの党代表がいわば返礼として参加しました。また、パキスタンという、これも南アジアの一角を占めるイスラムの国ですが、二〇〇二年十二月、志位さんが訪問して、政府と会談しました。こんど、パキスタンの首相が日本を訪問したときに、再び会談しましたが、ここでも、政府と日本共産党のあいだに太い関係ができてきたのですね。こういうことがイスラムの国とのあいだにもどんどん発展しています。

日本共産党の野党外交はなぜ発展できるのか

 なぜこういう外交が発展するのか、これをつかむことは「たしかな野党」の意味を考える上でも、日本の将来を考える上でも、たいへん大事だと思います。

 世界的な条件としては、“米ソ対決”の終結とともに、反共主義が過去のものになりつつあるという大きな変化があるのです。

 イスラムの国の中には、共産党と席を同じうせず、これが自分たちの原理的な立場だという国も、以前はありました。しかし、いまは、そういう国はほとんどありません。「イデオロギーが違うから共産党はいやだ」という原理的な反共主義(笑い)がいまでも政治の世界に残っているという国は、日本ぐらいではないでしょうか。

 世界では、多くの国が、政党を友人として選ぶ基準をもっています。平和と戦争の問題をはじめ、世界で共通の問題になっていることについて、その党がどれだけの道理と熱意を持って取り組んでいるか、これがなによりの基準なんですね。この基準にかなえば、「共産党でも結構だ、よい友人だ」という関係がすぐ生まれます。

 そして、これは、私たちが野党外交の経験を通じて得た確信なのですが、世界の多くの国ぐにが、平和で民主的な日本、アメリカのいいなりでない日本、自立した日本をのぞんでいます。また、日本が平和の憲法をもっているということが、日本への共感の大きな源泉になっていることも、さまざまな機会に体験してきたことです。

 結局、私たちがめざしている日本というのは、世界の多くの国ぐにがのぞんでいる日本への期待と一致するんですね。そこに、世界の各国とのあいだでこういう関係が発展するなによりの土台の一つがあります。

 それから、日本の侵略戦争に日本共産党が反対したという歴史、ソ連にたいしても中国にたいしても、自主独立をつらぬいてがんばってきたという歴史、これが日本共産党への信頼の大事な根拠になっていることも、間違いない点です。イスラムの国に行くと、私たちがソ連のアフガニスタン侵略に反対したという話が、いわば水戸黄門の印籠(いんろう)みたいな役割を果たすんですよ。(笑い)

 それから、「国連憲章に規定された平和の国際秩序を守る」、「いかなる覇権主義的な企てにも反対する」、「民族自決権の擁護」、「テロにも報復戦争にも反対」、「異なる価値観をもった諸文明間の対話と共存」など、私たちが綱領で掲げている平和外交の方針は、ほんとうに大きな共感を得るのです。話しながら私たちの文書に目を通し、“賛成だ”、“これはわれわれと一致する”などと、共感の声をその場ですぐあげる人もいます。

 こうして広がった平和のネットワークというのは、私は、ただ日本共産党とそれぞれの国の政府や政権党との関係の問題だけにとどまらないと思っています。それは、日本国民の平和と民主主義の願いと、世界の多くの国ぐにのそういう願いとを結びつけるきずなともなるのです。

 実際、私たちの野党外交の発展のなかで、広島、長崎で毎年開かれる原水爆禁止世界大会の様子も変わってきました。私たちと友好関係をもった多くの国ぐにが政府の代表をどんどん参加させてくる。運動団体じゃないですよ、政府の代表や大使たちが、原水爆禁止世界大会に参加して、国際会議で討論する、それがすぐ国連の討論にも反映する。こういうところまで日本の原水爆禁止運動が発展しているのです。

 私たちのこの経験は、日本で外交政策の転換がおこなわれたとしたら、八方ふさがりどころか、日本の外交の前途には洋々たる展望が開かれるにちがいない、そのことを事実をもって示すものではないでしょうか。(拍手)

 いま三つの分野で話しましたが、私たちは「たしかな野党」としてのこれらの活動を、今後とも責任をもって果たしてゆくことを国民にお約束するものであります。(拍手)

 この活動を通じて、新しい政治への信頼を広げてこそ、私たちが展望する新しい政治への条件も一歩一歩熟してくるのであります。

五、「たしかな野党」の前進こそが、日本の政治の今後を決める

民主党の政権戦略とは何か

 同じ野党でも、民主党はまったく政権戦略が違うんですね。だいたい私たちは自民党の政治が破綻しているから、それと違う、新しい政治をどうしてうちたてるかということを、政権戦略の一番の柱にしますが、民主党はそこがまず違うのです。

 自民党の政治が破綻しているから、私たちなら同じことを破綻しないやり方でやるよ(笑い)、これが民主党の“売り”なんです。それを売り文句にして、われわれは同じ政策目標をもっとうまく、もっと効果的にやるから支持してくれと、自民党の支持母体になっている同じ勢力──財界・大企業であれ、アメリカであれ、これまで自民党をささえてきた支配勢力に訴えようとする、これが民主党の政権戦略です。

 だから、小泉「改革」を批判するときにも、小泉「改革」の路線そのものの批判はしないのです。目標は同じだが中途半端だとか、やり方がまずいとか、抵抗勢力に邪魔されてかわいそうだとか(笑い)、私たちならうまくやりますよ、という批判しかできないのです。

 立場の基本がこういうところにありますから、国民にとってどんなに具合が悪い悪政の方針でも、財界やアメリカが支持し推進している要求だとなると、自民党と共通の側に立ってしまいます。消費税増税でも、サラリーマン増税でも、憲法改定でも、自民党と競い合って、“こちらの方が本物だ”ということを宣伝しようとする。

 こういう目で見ると、一見わかりにくい、複雑で矛盾したものに見える民主党の行動が、かなり整然たるものに見えてくるのではありませんか。(笑い)

 だから民主党は、野党として責任ある仕事をしようとはしないのです。反対に野党と呼ばれるのがいやなんです(笑い)。「政権準備政党」とみずから名付けて、せめて名前だけでも政権党らしくあつかわれたい。こんな腰の引けた姿勢で、自民党のまちがった政治と対決できるわけがないのです。

 だいたい、自民党政治というのは、これまでは、党内にいろんな派閥があって、政治の大きな方向は同じ流れなんだけれども、派閥の交代で多少の色合いのちがいをみせて、政権交代らしく振るまってきました。民主党のめざす政権交代というのは、こんどはその仲間に、派閥ではなく政党の形をとったものが一つ加わるというだけで(笑い)、流れは同じです。だから、この政権交代のやり方は、自民党の政治の流れのなかでの担い手の交代ということで、結局、これまでとあまり変わりがないではないか、そういうことが、だんだんわかりはじめています。

 しかも、このやり方は、日本国民はすでに経験済みなんです。十二年前、ちょうど都議選と総選挙がつながるという、状況もいまとよく似た選挙がありました。あのときに、自民党から小沢一郎さんの新生党が出、新党さきがけが出、それが自民党の外にあった社会党、公明党、民社党、社民連、さらに日本新党などなどといっしょになって、「非自民」連合なるものをつくり、選挙に勝って細川政権をつくったのでした(一九九三年)。この細川政権は、「非自民」を看板にしたものの、政治の内容は、最初から“国の基本政策は自民党を受け継ぐ”という方針でしたから、政権の独自の実績といえるのは小選挙区制と政党助成金くらいのもので、一年ももたないでつぶれました。

 民主党は、あれと同じことをもう一度やろうとしているのです。やろうとしている顔ぶれも、実際の勢力は、さっきいった新生党、新党さきがけ、社会党、民社党、公明党、社民連、日本新党などの「非自民」連合から、公明党と社会党の一部、いまの社民党の部分がぬけただけですよ(笑い)。つまり、同じ勢力が同じことをやろうとしているのです。

 いまもいったように、細川内閣の経験といっても、この内閣が日本の政治に残したのは、小選挙区制と政党助成金という悪名高い制度だけでした。しかし、あのときの夢をあきらめきれないで、もう一度、あの夢をおこしたい、どうもその気持ちがあの「日本を、あきらめない」という民主党のキャッチコピーにはにじみ出ているようです。岡田克也代表が、この「あきらめない」という言葉には、自民党離党以来十二年の思いがこもっているとよく解説していますから。

 自分があきらめきれないで昔の夢にたちかえることはご当人の勝手ですが、しかし、自民党政治への国民の怒りを、こんな政権構想に託すわけにゆかないことは、すでに明らかではないでしょうか。(拍手)

日本の政治の未来は、「たしかな野党」の前進にかかっている

 自民党政治をだれがになうかという問題は、マスコミ的には、おそらくこの選挙の関心の最大の焦点になるでしょう。しかし、政治のゆきづまりを打開するという大きな展望からいえば、新しい政治のにない手であり、自民党の間違った政治と対決する「たしかな野党」日本共産党がこの総選挙でどれだけ前進するか、ここに日本の政治の未来がかかっているということを、確信をもって、すべての国民、すべての有権者に訴えようではありませんか。(拍手)

 この選挙では、比例代表の選挙も、小選挙区の選挙もおおいに意気たかく、新しい政治をおこす政党の活力を発揮してたたかいましょう。八月三日の全国会議で、私たちは、そのなかで「比例代表の得票の前進に執念をもって取り組もう」という方針をうちだしました。それは、わが党がどれだけの議席を獲得するかは、現時点では、なによりも、比例代表選挙での得票の前進にかかっているからであります。

 〇三年の総選挙、〇四年の参議院選挙では、私たちは、「二大政党制」づくりの動きに攻め込まれて、大きな後退を経験しました。しかし、参院選後の一年間、各地の中間選挙で“反転攻勢”に取り組み、得票では参院選で攻め込まれた水準から全国平均で一・三四倍のところまで押し返す成果を得ました。今回は、国政選挙における“反転攻勢”の重大なチャンスです。「日本は一つ」「全国は一つ」を合言葉に、比例の得票と議席の前進に全党が思いを一つにして取り組もうではありませんか。(拍手)

 選挙のこの活動で、最後に一言いいたいのは、有権者はこの選挙では二票を持っていることを忘れない、ということです。いまの激動の情勢のもとでは、選挙区での投票行動と比例区での投票行動は、多くの人にとってそれぞれ別なんです。そこに注意してほしい。選挙区で支持をえられないからといって、そこであきらめないで、比例での支持を求める活動をねばりづよくすすめる。これが大事です。そういうことをふくめて、「比例に執念を燃やす」という方針を支部でも党機関でも、創意をもって具体化し、明るく豊かな選挙戦を展開しようではありませんか。(拍手)

 このような形で全国決起集会を開いたのは、日本共産党の選挙戦の歴史のなかでもはじめてのことであります。公示まであと十一日、投票日まで二十三日、この選挙戦で、二一世紀、新しい政治を開く展望への第一歩となる成果をかちとるよう、すべての党員、後援会員、党支持者のみなさんのご協力、ご奮闘をお願いして報告を終わるものであります。どうも長い間、ありがとうございました。(拍手)


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