2005年11月19日(土)「しんぶん赤旗」
日本軍の大量餓死 中国本土では?
〈問い〉 9月24日付本欄の「日本軍の戦死の6割が餓死」に ついて。中国では「半数が餓死」とありますが、中国に限ってみれば戦闘での戦死傷が多かったのでは?(東京・一読者)
〈答え〉 太平洋の孤島や南方の密林とは違って、多くの人々が住む中国では、餓死者などはなかったと思われやすいのですが、敗戦前2年間の中国戦場では病死者は戦死者を上回っていました。このことは、歴史学者の故藤原彰氏が『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店・01年)のなかで、1994年に刊行された長尾五一軍医中佐の遺著『戦争と栄養』などをもとに裏付けています。
中国戦線で最後の作戦となった第20軍のシ江作戦(※)の場合、45年4月〜6月の3カ月間の死者は戦死695人、戦傷死322人、戦病死2184人、合計3201人にのぼり、「第20軍の統帥発動以来終戦までの各種比率は…戦死、戦傷、戦病死おおむね4対5対91」(第20軍軍医部の戦死・戦病死者別一覧表の注)とされています。
藤原氏は、こうした資料から、戦傷死が意外に多いことに注目し、「負傷した後に包帯所や、野戦病院で死亡する者が多かったことは、患者の給養がきわめて悪かったことと無関係ではない。これも広く餓死の分類に入る。圧倒的に多い戦病死の詳細な内訳は不明である。しかし病気の大部分が長期間の不十分な給養で、栄養失調状態にあって病気にたいする抵抗力を失っていたため、戦病死に至った」と書き、中国戦線での45万の戦没者の過半数が戦病死、それも給養不足に基づく栄養失調や、それが原因での体力の消耗による「広い意昧での餓死」であったと結論しています。
日本軍が、補給らしい補給もなしに、現地調達する方針は、明治以来、一貫していました。日清戦争が開始された1894年(明治27年)、朝鮮出兵軍からの補給困難の訴えにたいして参謀本部は次のように訓令しています。
「…古昔、兵家の格言に因糧於敵(糧〈かて〉を敵に因〈よ〉る)の一句あり。爾来〈じらい〉内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものはこの理由に外ならず。…糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、いわんやこれを運搬する人夫においてをや…」〔同6月29日、参謀総長・熾仁親王から混成旅団長・大島義昌あての訓令 中塚明著『歴史の偽造をただす』(高文研)から引用〕
「因糧於敵」、これが侵略軍として日本軍の行為の根本にあったのです。(喜)
〔2005・11・19(土)〕
(※)シ江作戦の「シ」は、くさかんむりに止の字