2006年2月23日(木)「しんぶん赤旗」
弾圧に関与した裁判官・検察は戦後どうなったの?
〈問い〉 横浜事件の再審の判決は「免訴」とされましたが、戦後の司法が戦前の間違いに決着をつけず戦後に引き継がれているという解説を聞きました。戦前、共産党弾圧などにかかわった裁判官、検事は戦後、どう責任を問われたのですか?(東京・一読者)
〈答え〉 戦前、国民の自由を抑圧し、拷問や虐殺などをふくむ弾圧に直接に手を加えたのは「特高」(特別高等警察)が中心ですが、検察官や裁判官の責任も重大です。とくに検察官はいまと違って捜査の段階から警察官を指揮していたので、特高警察の非道な行為はすべて検察官も同じ責任を負っているといっていいのです。
しかし戦後、米国の初期の対日方針である「一切の秘密警察組織の解消」に基づく1945年10月4日の“人権指令”で、特高警察機構は一応解体され、その幹部は全員公職から追放(後に解除)されましたが、検事で追放されたのは34人にとどまりました。裁判官にいたっては、警察や検察に迎合した判決を書き続けたことによって、弾圧に関与した大きな責任があるのに、一人も公職から追放されませんでした。
つまり、治安維持法などによる起訴や裁判を担った思想検察と判事は責任追及の視野の外におかれ、思想検事や予防拘禁所関係者、司法省刑事局、刑政局などの関係者や判事は、ほとんど無傷で残ったのです。
こうした事態になった最大の理由は、最近の靖国問題にもみられるように、いまの自民党政治につながる戦後の日本の支配体制が、侵略戦争とそれを支えた国民抑圧の弾圧体制についてまともな反省をしないできたところにあります。
その結果、たとえば―
生活綴方(つづりかた)教育の村山俊太郎を弾圧した予審判事・長尾信が松川事件第1審で5人死刑、5人無期懲役という異常な判決をした裁判長になる。京都学連事件以来多くの弾圧にかかわった思想検事・池田克が最高裁判事となり、公務員労働者のストライキ権を問答無用に違法とした「3・15判決」(63年)を下す。ナウカ社社長弾圧などの予審判事の経歴をもつ石田和外最高裁長官が、「燈台社」事件、朝鮮人弾圧事件などに関与した元判事・岸盛一最高裁事務総長や、「満州国」の高等法院判事として多くの中国人民を残虐に弾圧した飯守重任鹿児島地裁所長らとともに、青法協攻撃の先頭に立つ。土方与志の起訴やゾルゲ事件などを担当した思想検事・吉河光貞が戦後、初代公安調査庁長官となり共産党中央委員追放などをおこなう。1938年の労農派学者グループ弾圧事件の担当検事・井本台吉が、最高検検事総長となり、日通事件(68年)では東京地検が捜査中なのに渦中の池田正之輔代議士と会食する。
――など、暗黒政治に加担した人脈が戦後の司法反動化をすすめたのです。(敬称略)(喜)
〔2006・2・23(木)〕