2006年3月4日(土)「しんぶん赤旗」
小林多喜二、山本宣治が殺されたわけは?
〈問い〉 小林多喜二や山本宣治が殺されたのは「3・15事件」における特高警察の拷問を告発したためだと聞きましたが、どういうことですか?(北海道・一読者)
〈答え〉 1928年3月15日未明、天皇制政府は、内務省、検事局や警察の総力をあげて、日本共産党員、支持者をいっせいに検挙しました。日本共産党が同年2月、「赤旗」(せっき)を創刊し、初の普通選挙で11人を労農党から立候補させ、山本宣治、水谷長三郎の2人の当選をかちとった直後でした。
弾圧は、反戦平和と主権在民を掲げ国民の前に敢然と姿をあらわした共産党の圧殺が不可欠だったからでした。田中義一内閣はその年の4月、中国侵略をひろげ(第2次山東出兵)、国内では治安維持法を改悪(最高刑を「死刑」に)、特別高等警察(特高)の網を整備し、弾圧体制の強化をはかりました。
3月15日の弾圧では、党組織の壊滅へ、検挙者にはげしい拷問を加えたことが特徴で、その後は「殺しても上司が引き受ける」という暗黙の了解で、歯止めがなくなり、虐殺も急増しました。
小林多喜二が住む北海道小樽でも「3・15」からの二カ月間で500人もの人々が検束され、小樽警察は署長官舎に拷問室を急造し毛布で窓をおおって防音し、拷問をくり返しました。これを知った多喜二は、未定稿の「防雪林」の執筆を中断し「一九二八年三月一五日」を一気に書き上げ、野獣化した特高を告発します。
山本宣治も翌1929年2月8日の帝国議会で追及しました。
「福津正雄という人間は…、冬の寒空に真裸で四つばいさせられて、…竹刀で殴って『もう』と牛の鳴声をいえといって『もう』といわせ、あるいはその床をなめろといって、床をなめさせた…、静秀雄という被告は…竹刀で繰返し殴られて、もん絶した。ふと、眼がさめてみたら枕許に線香が立ててあった」「鉛筆を指の間にはさみ、あるいは三角型の柱の上に坐らせて、そうしてその膝の上に石を置く。あるいは足をしばって逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流し、そうしてもん絶するまで、うっちゃらかしておく…生爪をはがして苦痛をあたえる、というような実例がいたる所にある」
政府側はこの事実を「断じて認めることはできませぬ」「これに対して所見を述べる必要はありませぬ」と答弁を拒否。戦後もその態度を変えていません。
山本代議士は、この追及をした一カ月後、刺殺されました。犯人は右翼団体の一員で捜査にあたった特捜課長と親しい間柄だったことはのちに判明しています。多喜二も5年後の1933年2月20日、築地警察署で特高によって虐殺されます。5日は山宣没後77年です。(喜)
〔2006・3・4(土)〕